本の海の響きに耳を傾けたくなる
『本と貝殻』。表題作となる詩篇が、さわやかな序として掲げられている。「本と貝は似ている」。ただし大事なのは「中に潜むみずみずしい肉」であって、本としての貝は読まれることで成長し、身の丈にあったあたらしい貝殻を探す。本も、また本を手に取る者も、それにあわせて場所を移すのだ。四章からなる構成は、「書評/読書論」という副題を裏切らない。「読むとはどういうことなのか」についてのエッセイが冒頭に置かれ、さまざまな媒体に発表された書評と、ずっと尺のながい解説文がつづいて、最後に適度な抽象性を添えた対話の記録も収められている。しかし本書の魅力は、むしろそうした枠を取り払って、かちかちと触れあう貝殻の音や、そこから聞こえる本の海の響きに耳を傾けたくなるところにあるだろう。
著者には、すでに「本は読めないものだから心配するな」という至言がある。人はそのとき身にまとっていた貝殻の大きさに見合うだけのことしか読めない。冊という単位は、読むことにおいては意味をなさず、すべてを理解するのが無理だからこそ、わかったものを目の前の川に投げ入れ、それを「踏み石」にして向こう岸への「かち渡り」を試みる。浅瀬を渡ることを意味する英語を受けて、読むという行為は「本をfordする」ことだと鮮やかに説くこの書き手はいったいどんな人物なのか、本よりもそちらのほうが気になってくる。だが心配はいらない。ひとつひとつ貝殻を拾っていけば、選んだ側の思考の痕跡も浮かびあがる。
幅広い選書に一貫しているのは、移動の感覚である。旅、言語、翻訳、命への敬意、そして詩への共感と信頼。色や形に惹かれて手にした本の貝殻は、べつの浜に落ちていた貝殻を、あるいはまだ見たことのない貝殻をも想起させる。「<いま・ここ>に生きながら、その場にないもの、時間的にも空間的にも隔たったものを想像する」柔軟な知性と感性をもって、未知の器へと無理なく手を伸ばす。
末尾に据えられた対話は、カリブ海の詩人エドゥアール・グリッサンをめぐるものだが、グリッサンは世界をひとつながりの<アーキペラゴ>(群島)と捉えていることがそこで語られている。小さな、具体的な、ローカルな土地が網の目のようにつながって、大きな群島をかたち作るという思想。島の比喩は、「かち渡り」のために、立ち話をして川に投げ入れた石の拡大版だと言ってもいいだろう。要するに、本は島なのだ。
おなじ版元から同時に刊行された詩集『一週間、その他の小さな旅』の、「こころ」と題された作品の一部を引いてみよう。
言葉はきみのものじゃない/木の葉や貝殻のように/そっと借りてきて並べてごらん/みごとな美しさ/そのかたちと色合いが/きみを自由にする
大切なことがさらりと書かれている。言葉は自分がつくりだしたものではない。だから拾うのだ。それを食べて中身が大きくなったら殻を脱ぎ、虚ろな穴にべつの貝殻の沈黙を呼び入れて知らない響きに耳を澄ます。言葉の表情が変わり、本の姿が変わり、拾う前の自分ではなくなる。この変化こそ、読むことでしか得られない自由のあらわれなのだと本書は教えてくれる。