相対主義の退嬰 「欲望論」武器に打ち破る
竹田青嗣氏の新著は、古代から現代思想に至る西欧哲学の流れを、一本の軸ですっきりと読み解く。それはゴルギアス・テーゼ。存在は証明できない/認識もできない/認識しても言葉にできない、とするギリシャのソフィスト、ゴルギアスの主張だ。この相対主義の不可知論が、現代思想を蝕(むしば)んでいるという。竹田氏によると哲学は≪「普遍洞察」という独自の方法によって世界を説明する≫もの。「物語」で世界を説明する宗教とは違う。万人にとっての共通了解を追究するのだ。
哲学は古代に始まり、信仰の中世を経て、近代に大発展した。市民階級の知性の発露だ。その成果を現代の最先端の課題に繋(つな)げた画期的な思想家が、ニーチェとフッサールの二人だという。どこが画期的か。
ニーチェは≪世界はそれ自体として「存在」してはいない。世界は、「力」によって分節されつつたえず「生成」する≫と考えた。カント哲学の存在/認識の図式を踏み越え、≪「客観世界」…は、この「生成の世界」の投影≫だとした。著者はこれを「力相関図式」とよぶ。存在はそのものとしてあるのではない、欲望と相関的に確信されるのだ。
フッサールは現象学の方法で認識論を再構成し、≪一切の認識を「確信」の成立とみなす≫べきことを明らかにした。この確信は間主観的で普遍的だ。≪世界は欲望の相関者としてのみ分節される≫のである。
この二人の洞察から、どんな視界が開かれるか。≪人間や社会という探求の領域はそもそも「本体性」をもたない。それは…間主観的な共通確信の世界だ≫という発見だ。ウィトゲンシュタインもこれをわかっていた。≪彼の哲学の核心にあるのは…ニーチェ、フッサールに通底する「認識—意味相関性」の観点≫である。だから彼の言語ゲームの議論は高く評価すべきものである。
以上を骨格として、本書は、およそあらゆる西欧哲学の知性や著作の数々を、滋味豊かな養分のようにその周辺に配置する。なかでも重要なのはルソー、カント、ヘーゲル、コント、ショーペンハウアー、フロイト、バタイユ、ベルクソン、ハイデガー、メルロー=ポンティ、デリダ、フーコー、レヴィナスらだ。
本書は先に刊行された大著『欲望論』第一巻、第二巻(講談社、二○一七年)のエッセンスを凝縮した新書版。一冊で竹田哲学と西欧哲学が丸わかりでき、超お買い得だ。
さて竹田氏によると、現代思想も哲学もどうしようもなく行き詰まっている。どう行き詰まっているか。マルクス主義の大きな物語が退場した。資本主義は脱出できない牢獄のようだ。抜け出る方法はないか。どんな価値も意味も相対的なんです。社会は資本主義でなくたっていいんです。そうやって頭の中で都合の悪いものを相対化する。資本主義を抜け出たつもり。現代哲学をつぎはぎすれば、こんな理屈をひねり出すのは簡単だ。ポスト構造主義。構築主義。多文化主義。価値相対主義。そんな哲学遊びが退嬰のかたちだ。
もうひとつの退嬰は、問題から降りてしまうこと。社会のことは考えない。哲学の専門ジャーナルに論文が載ったので哲学者です。専門に立てこもる。大学で教えれば生活できる。竹田氏は専門ジャーナルには目もくれず、社会と格闘する。本当の哲学をやる正しい態度である。
哲学が行き詰まるのは、存在/認識/言語、の枠組みで考え、存在≠認識≠言語、というゴルギアス・テーゼに阻まれるからだ。竹田氏は欲望論に拠(よ)って、哲学の伝統をまるごと読み換える。欲望論とは、知覚や認識や理性や発語に先立って、人間の生きようとするはたらき(欲望)があるとみること。とすれば、世界も社会も、相対主義でできているはずがない。現代思想の閉塞(へいそく)のその先へ抜け出るカギが欲望論である。
では具体的に、欲望論をどう展開しているか。本書は、時間意識を論じ、幻想的身体を論じ、無意識を論じ、価値の発生を論じ、善悪の起源を論じ、美の発生を論じ、容貌と芸術の美を論じる。どの章にも発見がある。よく知っていた議論も、新しい文脈の中で新たな生命を与えられる。哲学者がばらばらに語ってきた議論の断片が、欲望論の中でつながって、本来の意味を取り戻す。
欲望論は、まず人間が欲望を持っていると想定しましょう、という実体論ではない。欲望は、量子力学のようなダイナミズムだ。言語ゲームの考えに近い。言語ゲームはふるまいを根源に、ルールや言葉や価値や意味を導く。欲望論は、欲望のダイナミズムから、世界と社会の構成を説明する。最終的にそれがどんな完成形になるのか、『欲望論』の続巻を楽しみに待つことにしよう。
最近、哲学がブームだという。よいことだ。哲学は、先行者への敬意と理性への信頼があれば、誰でもできる。そして哲学の本が売れれば、絶滅危惧種である哲学者が生き延びられる。本書で、哲学の魅力を味わった読者は、ほかの思想家の本にもどんどん手を伸ばしてほしい。政治も経済も社会も混迷が深まるなか、日本の哲学が世界に羽ばたき、閉塞を打ち破るなら痛快ではないか。