思索や夢想へと誘う「心地よき場所」
俗に「感性の歴史家」と称されるアラン・コルバンの仕事を、ひとことで言いあらわすのは難しい。感性という形にならないものを扱う手つきが感性的でなくなったら構造的な矛盾をきたすし、博識を束ねるのにゆるい詩情だけを頼りにしていたら読み物にはならない。著者が重ねているのは、理性をしっかり働かせたこまやかな心の観察であり、その証拠に、彼は研究者が信頼を寄せる公文書のたぐいではなく、分析よりも想像力に身を委ねる作家、詩人、哲学者、そして時には画家たちが残した言葉を集める。結果として生まれてくるのは、史書と詩書のあいだを縫って枝葉を伸ばす壮大なアンソロジーである。本書の原題には「心地よさ」という単語が含まれている。繰り返し言及されるように、木陰とは物思いに耽(ふけ)り、読書をし、横になって憩うような「心地よき場所(ロクス・アモエヌス)」であることが、記述の前提となっている。ただし木陰とは、自分を包み込むような量感のある森や林ではなく、あの木、この木と名指すことのできる、目の前に立つ一本の樹木を意味する。「古代から現代まで」、ひとが樹木にどのような感情を喚起され、どのようにふるまってきたのか、『樹木を見つめる』すべを知っていた者たち」の事例の環を少しずつ重ね、反復もひとつの味わいにしながら、けっして体系化しない筆法にしたがっていくうち、読者はいつのまにか、本を読んでいるのではなく頁のなかを歩いていることに気づかされるのだ。
その瞬間から、本書は樹木とひとをめぐる、稀な思索と夢想の案内書となる。樹木に対してまず感じるのは驚きであり、茫然自失であり、畏怖の念である。樹木はいつ出現したのか。「崇高さを滲ませる重量感」は、神々の時代からずっと生き続けているとしか思えない圧倒的な生命力の証しであり、それゆえに不安ももたらす。畏れを壊さず、むしろ補強したのが年輪の発見なのだが、樹齢何年という数字が感情を揺るがすことはない。詩文は科学を正しくぼかして私たちを励ますのである。
何度も参照されるフランスの作家、『ポールとヴィルジニー』で知られるベルナルダン・ド・サン=ピエールは、「どの木にも固有の表情があり、どの群れにも固有の協同がある。愛と尊敬、陽気さ、庇護、官能、そして宗教的な憂愁が綯(な)い交ぜになった感情が、彼らの臓腑から生じているように思えるのだ」と記した。ひとは、個性と感情を有する樹木と一対一で対話し、樹皮に思いを刻み、それが時を超えて伝わっていくのを信じる。樹木もその思いを受けとめて、傍らにいた存在の痕跡を残しつづける。
十字架にも用いられた聖なる樹木はまた、ひとを変容させ、自身と合一させる禍々しい力も発揮しながら、一方で官能的な愛の対象にもなる。それだけではない。木々は嵐や雨から私たちを守る避難所となり、高みからの新しい眺望と知見をもたらす展望台としても機能し、「人間を垂直性へと誘う」。
読者はこの長い散策のさなかに、すべての事例に紐付けられた、しかしその紐をほどいて自在に飛翔する引用を目にして、木陰に吹く微風や地に伸びる影を肌で感じ、大もとにあった茫然自失を「心地よく」体験し直すだろう。