空前絶後のスケールがスケッチされた
「橋本治愛」がどのページからも溢れている。批評だが批評を超えている。こんな本を書いてもらえば誰だって涙が出るだろう。橋本治は二○一九年に亡くなった。作家、イラストレーター、批評家、劇作家、文学者、…と八面六臂の活躍で、二○○冊以上の著書を残した。中一(十三歳)のとき『桃尻娘』と衝撃的に出会って以来のファン千木良氏は、橋本作品をすべて再読し三年かけて本書を仕上げたという。これまで批評家に素通りされてきた橋本治の、記念すべき研究書第一号だ。
大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。
女子高生の話言葉(桃尻語)でリアルに現代を描き出す。他者の人格に憑依(ひょうい)し自在に言葉を操る。特異才能だ。
『桃尻娘』シリーズに続く『桃尻語訳 枕草子』はどうか。
春って曙よ! …紫っぽい雲が細くたなびいてんの!
王朝の古典を現代の女子高生語に置き換える。テキトーに訳したと見えて、語彙対照表まで用意した厳格な逐語訳。編み物か数学のような精密な作業で、清少納言の感性を現代にそのまま再現する奇蹟的な作品だ。
『窯変 源氏物語』『双調 平家物語』も圧巻である。古典を口語で語り直す。その準備はひたすら厖大だ。詳細な年表や系図も手作りし、作業ノート『権力の日本人』『院政の日本人』がまた、専門家が裸足で逃げ出す驚異の出来栄えだ。その才能を怖れ、アカデミアは橋本治を無視している。
橋本治は「普通の人」を好んで小説に取り上げる。いわゆる昭和三部作もそんな物語だ。『巡礼』は地域の衰退と共にゴミ屋敷になってしまった荒物店の主人の話。『橋』は実際に起こった二つの殺人事件を題材にした話。『リア家の人々』は、堅物の役人と三人の娘の家族の落日を描く話。人びとが生きる時代の手触りと容赦ない社会の変容が伝わってくる。
この手法を集大成したのが『草薙の剣』だ。死の前年に発表された。昭生/豊生/常生/夢生/凪生/凡生。互いに関係ない一○歳刻みの主人公たちが、めいめいの無名な人生を歩む。するとそこからこの時代の図柄が浮かび上がってくる。まるで編み物のような、類例のない小説の手法である。
普通の人による群像劇は時代を表すが、これといったストーリーがない。そこで翻案も下敷きになる。『リア家の人々』はリア王の翻案だし、遺作となった『黄金夜界』は金色夜叉の翻案だ。時代や場所や人物像が決まると、登場人物は自分で動き始める。作者はそれを書き留めるだけだという。
この手法は日本文学の伝統への挑戦だ。橋本治は『失われた近代を求めて』で明治以来の純文学を批判し、私小説の文体を脱構築する。『草薙の剣』や『黄金夜界』はそういう大きな構えの創作である。王朝文学や平家物語、浄瑠璃や歌舞伎、江戸の戯作や落語に至るまで怒濤のように千年にわたる国文学のすべてを論じ切り、表現に取り込んでしまう橋本治のスケールは空前絶後。本書はその偉大さの全貌を丹念にスケッチする、心のこもった労作である。
この偉大な天才の真価が本当に理解されるには時間がかかる。折しも神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」が開催中。今ならまだ間に合う、会場へ急げ。