開き直って、地に足がついた読み方
『40歳から凡人として生きるための文学入門』と題名にある。40歳以上、しかも凡人という二つの条件をクリアしているわたしは、これだよこれとばかりに本書をすぐ手に取った。70歳を超しているので手遅れではないかと危惧しながら。その危惧はまったくの杞憂だった。個人的に頷くことばかりで、これはお互い凡人どうし、著者との相性がいいのかとも思ったが、「凡人の資格に、才能も努力も根性もいらない。ああ、自分は平凡だな、としみじみ思えば、れっきとした凡人である」とあるとおり、その自覚さえあれば誰でも本書の良き読者になれる。中年からという限定が付いていても、それを鵜呑みにする必要はなく、「どうせ皆、年老いて凡人になるのであれば、中年のうちに凡人として生きるための心構えを身につけておいたほうがよい」という準備を前倒しで始めるのも悪くない。
著者の森川慎也は英文学の研究者である。その著者が、自分は凡人だと自覚して、それでいいのだと開き直って書いたのが本書だ。ふつう、研究者は凡人であることを自認しない(あるいは、そう思っていても公言しない)ものなので、小説ずれした読者なら、著者の語り口に自己韜晦のユーモアを感じ取ってもおかしくないところだが、凡人だと開き直れるところが著者の非凡さだと言える。
本書は、凡人であることを起点にした人生論であり、文学論である。しかし、その二つは軌を一にする。著者にとって、「人生に意味はあるのか」という問いは、「文学を読むことにどのような意味があるのか」という問いと同じである。非凡であろうと努力を強いられ、他人の評価を気にするような生き方から脱却することは、「文学を語る言葉は、結局のところ、文学を読む個々の人間からしか生まれてこない」という認識と重なってくる。
本書は嬉しいことに実用書でもある。小説を読むときに、登場人物の凡人ぶりに焦点を合わせてみるのは、凡人の読者がその小説をおもしろく読むための強力なツールである。それはべつに小難しい文学理論ではなく、凡人としての自覚に基づいているからこそ、地に足がついた読み方なのだ。
ここに書かれていない、個人的な体験を例に出そう。本書を読んでいるとき、ちょうどわたしはアガサ・クリスティの『終りなき夜に生れつく』を並行して読んでいた。このミステリの語り手は、非凡な人間になりたいという願望を抱いている凡人である。そしてその母親は、本書に出てくる「凡人主義者の母」とそっくり同じで、「分相応に生きろ」と息子に諭す。その親子関係から小説世界を眺めてみるだけで、わたしはまだ殺人が起こっていない段階から、このミステリがどのように展開するかをほぼ予測できてしまった。まことに凡人理論恐るべし。
著者は凡人について考える実践例として、カズオ・イシグロの小説を読んでみせる。そしてイシグロ作品の登場人物が感じる「ささやかな満足感」を取り上げている。そう、わたしたちが読書から得るものは、つねに他の誰のものでもない、「ささやかな満足感」であるはずだ。わたしたちは自分の読書体験が肯定されたと感じ、著者に対して共感を抱くのだ。