問いの反復からあふれる優しさ
ナタリー・サロートの作品が邦訳されるのは、じつに四十四年ぶりのことになる。六〇年代から七〇年代にかけて、日本ではヌーヴォー・ロマン(新しい小説)と呼ばれるフランスの文芸作品が盛んに紹介されていた。輪郭のはっきりした人物が、よく構築された筋のなかを動きまわり、彼らの心理も丁寧に描写される十九世紀の伝統的な作風、現在でも「小説」といえばすぐに思い浮かぶような約束事によりかからず、語っている者の位置や語り方そのものへの意識を強めて、流動的な世界を描こうとする試みである。それを最も早い時期から実践していたのがサロートだった。植物が光などの外的な刺激を受けたとき、一定の方向に屈曲する反応をトロピスムという。サロートはこれを自身の文学的な手法に転用した。意識される前の、まだ形をなさない感情や感覚、言葉になる前の言葉の動き、外界の刺激に反応した心の状態をとらえるのである。この用語をタイトルに冠した『トロピスム』は一九三九年の作品で、その後も『見知らぬ男の肖像』、『黄金の果実』など、つねに未定型で「うち震えている」意識の下の意識を描いてきた。
だから、本書『子供時代』が八三年に刊行されたとき、あのサロートが、具体的な動かないイメージを描くのかという驚きと戸惑いがあった。同時にまた、読者はこの稀有な作家の≪自伝的≫な背景を少しでも知りたいという好奇心にかられたはずである。しかし手に取ってみると、サロートはサロートのままだった。作家自身を思わせる人物と、記憶を共有しているらしいその分身の対話という形式にも、不自然な印象はなかった。一方はあえて「子供時代の思い出」を語ろうとする。他方はそれが凝り固まったイメージに収まらないよう、エピソードのひとつひとつを内省的に再検討させるような問いを投げかける。自問自答を批評的に分散させることで、ふたつの声、ふたつの耳が、たがいを聴き合う音楽がうまれるのだ。
ナタリー・サロートは一九〇〇年、ナターシャ・チェルニャークとして、ロシアのイヴァノヴォのユダヤ人家庭に生まれた。父は博士号を持つ染料工場の経営者で、暮らしは裕福だった。しかし二歳のとき両親が離婚し、ナタリーは一一歳年下の歴史家と再婚してパリにいる母親に引き取られ、イヴァノヴォの父親とのあいだを行き来することになる。一九〇六年には、サンクトペテルブルクに移り、その間も父親とパリやスイスに滞在していた。しかし、一九〇九年には、わけあってパリに居を定めた父のもとで生活することになる。
ロシアとフランス、娘を愛する父とそれができない母のあいだで引き裂かれながらも、少女は自分を取り巻く親族や自身の生活の変化をじっと観察していた。その時々の心の微動が、いま、書いている「私」とその分身のやりとりによって動き出すトロピスムにしたがって少しずつ浮かびあがり、過去の断片のひとつひとつにまとわりついた靄(もや)がすっと晴れてはまた消えていく。子どもにとって精神的に重い場面であっても、「うち震えている」なにかが静かに伝わってくる。
母親とその再婚相手は仲むつまじく、ナタリーはふたりのあいだに入り込めない。母は父との離婚後、童話や小説を発表するようになり、ますます距離を取って、パリに迎えに来なくなる。父親は娘と一五歳しか違わない若いロシア人と再婚していて、やがて妹がうまれる。義母の気持ちが連れ子と実の娘のどちらに向かうかは、火を見るより明らかだった。孤独なナタリーを全的な愛で包んでくれたのは、ロシアからやってきて一年だけ同居した義母の母だけだ。血のつながりのない祖母の、帝政ロシア時代のむかし話に耳を傾け、いっしょに手作りのニンジンジャムを嘗(な)め、ロシア教会にお祈りに行く。「グラン・メール」(おばあちゃん)との記憶には、稀有な幸福の光が差している。
実母に棄てられ、義母に疎んじられた辛い日々のみを記すのでは、なにを語ったことにもならない。子供時代をさかのぼる「私」に、そのときあなたは本当にそう感じていたのかと問いかける分身には容赦がない。ところがその問いの反復のうちに、やがてかぎりないやさしさが溢れるようになる。「私」によって喚起され、ふたりのあいだで確認された記憶は、再び言葉になる前の領域に、崩れないようそっと押し返されるのだ。細やかなこのやりとりの前に、「新しい小説」といった呼称はほとんど意味をなさないだろう。
子供時代は、リセ・フェヌロンに入る直前の一九一二年で終わる。当然ながら、第一次大戦も、ロシア革命も、ユダヤ人としての苦難を引き受けたパリ占領下の時代も語られることはない。しかし記憶の層を掘り下げるなか、言葉と言葉の裂け目から「何かもこもこした灰色がかかったものがあふれ出てくる」さまには、ロシア生まれの少女が長じてフランス語で小説を書きはじめるまでの長い道のりに、やわらかい必然を感じさせる、確かな手応えがある。