誰もを驚かせた王妃の食卓
わずか14歳で未来のフランス国王ルイ16世と結婚したオーストリア大公女マリー・アントワネット。彼女の生涯は、今も私たちを魅了してやみません。女帝と呼ばれたマリア・テレジアの娘として生まれたアントワネットはウィーンで大切に育てられましたが、困難が待ち構える宮廷生活への備えはできていませんでした。それでも新生活に適応し、ヴェルサイユのひどく厳格な作法を習得しながら、宮廷から離れて、想像力が生む酔狂に彩られた世界を作り出しました。新たな建築、ユニークなインテリア、新奇な植物を求め、諸関係者に注文を出して、ヴェルサイユに独自の生活環境を築き、アモー〔王妃の村里〕やトリアノンでの簡素な生活を描き出したのです。彼女の趣味は古典的で、洗練を極めていましたが、その分高くつきました。建築家や庭師たちはプティ・トリアノンに提案書を持っていっては、そのことを思い知らされました。王弟プロヴァンス伯爵やオーストリア皇帝ヨーゼフ2世、北方伯爵の偽名でお忍びで旅行中のロシア大公パーヴェル夫妻は、王妃の晩餐に招かれて目を丸くしました。
マリー・アントワネットはイギリス風庭園に夢中になり、後年はアモーを心から愛しました。王妃の腹心リーニュ公も述べているように、「宮廷から100リュー〔1リューは約4kmだが、ここでは象徴的な意味〕」にあるプティ・トリアノンと、近くに立つ11軒の藁ぶき屋根の建物は驚嘆の的でした。牧歌的な眺めを背景にしたマリー・アントワネットの食卓は、簡素ながら高く評価されました。王妃から個人的な招待を受けた人は、プティ・トリアノンに入るためのコインを渡されます。王妃はこうした特別な招待客を丁寧にもてなしました。藁ぶき屋根の建物の周りの園芸区画では食材が栽培され、数名の庭師が香り豊かなハーブを育てていました。王妃は食卓に、思想家ジャン=ジャック・ルソーが描いた魅力的な演出を施しました。これは単なる一時的な流行ではなく、生き方とエスプリの表現なのです。チーズ、クリーム、はちみつのベニエ。トリアノンでの日常には、啓蒙思想の精神があふれています。これは1つのライフスタイルであり、王妃の判断基準は、美しいか、優れているか、本物かだけでした。彼女の好物は家禽類のローストや煮込みで、朝はコーヒーと、オーストリアでの子ども時代を思い出させてくれるヴィエノワズリー〔ウィーン風焼き菓子。クロワッサンやブリオッシュなどウィーン発祥の菓子パン類〕を好みました。王妃はルイ16世ほどの食いしん坊ではありませんでしたが、「フランス風」テーブルセッティングに夢中になりました。トリアノンの一部を拡張し、厨房、果物貯蔵所、菓子製造場などが設置され、多数の専門職人たちが忙しく立ち働き、食卓に供される食事よりももっとたくさんの品が調理されていました。
本書は18世紀のレシピ本ではなく、繊細で洗練された現代の創作料理を通して、過ぎ去った時代のエスプリを再現します。きっと王妃も、感覚に訴えるこうしたレシピを気に入ったことでしょう。
「妃殿下はフランスを輝かせ、美食を広められることになるでしょう」。1770年にこう声高に口にしたのは、パリの商人頭ジェローム・ビニョン。王太子妃にフランスの名産品を紹介したときのことです。未来のルイ16世と結婚したマリー・アントワネットは、のちにヴェルサイユ宮殿近くに複数の区画を得て、牧歌的で趣のある愛らしいフランスの風景を再現することになります。
プティ・トリアノンでの宴
すべては1774年に始まりました。ルイ16世は若妻に531個のダイアモンドがあしらわれた鍵を渡して、プティ・トリアノンを贈りました。宮廷の喧騒から隔たったプティ・トリアノンは、瞬く間にアントワネットを魅了しました。オーストリアの幼少時代を彷彿とさせ、ジャン=ジャック・ルソーの思想にも通じる牧歌的なライフスタイルを好んだ王妃にとって、プティ・トリアノンは「宮廷作法の疲れ」を癒してくれる場だったのです。建築家リシャール・ミックと画家ユベール・ロベールは王妃の依頼を受け、プティ・トリアノンの周りにアングロ・シノワ庭園を造りました。1783年以降は王妃の指示の下、その先の土地に11軒の家からなる村里を建設しましたが、第一期工事だけで、一連の建築物に実に30万リーヴルが費やされました。何軒かの藁ぶき屋根の建物には菜園が付属していて、窓際に青と白の陶器の鉢が置かれた家もあります。農園、ベルヴェデーレ〔見晴らし台〕、洞窟、水車小屋などを備え、ささやかな楽園にも似たこの地の生活リズムを刻むのは、季節だけです。王妃はたいてい小劇場で友人たちを前に演じたり、ゴール・ドレス〔コットンモスリンの簡素なドレス〕に身を包んでピカルディー風の縁なし帽をかぶって、アモーで農婦の役を楽しんだりしました。4年の間、マリー・アントワネットは、フランス王妃には不釣り合いなこの場所で、晩餐、私的な舞踏会、音楽会を催し、「招待を受けた」賓客や親しい人だけが参加できました。兄でオーストリア皇帝だったヨーゼフ2世もフランス旅行中に立ち寄りましたし、ポリニャック公爵夫人、オルレアン公爵夫人、プロヴァンス伯爵夫人、ランバル公妃、アクセル・フォン・フェルセン伯爵の姿も見えます。誰もが田舎のもたらす喜びを味わい、「パラディ(楽園)」と呼ばれたリンゴの木、野生のスミレ、「プロット・ド・ネージュ(雪玉)」という名のバラに縁どられた小道の素晴らしい眺めを楽しみ、サボイキャベツ、ルバーブ、インゲンマメ、セージなど、近隣の農家からの新種野菜や果物も堪能しました。卵、牛乳、クリーム、チーズなどの乳製品はお菓子作りに欠かせず、上白糖がなかった当時、果物はムース、コンポート、ジャム、きび砂糖入りジュレを作るときの必需品でした。
本書で紹介するレシピは、当時存在していて現在も使われている食材のみをもとに考案されています。マリー・アントワネットの食卓でも供されたかもしれません。好みも風味も変化するので、現代の私たちの味覚にも合うようにほんの少しだけ手を加えてあります。「背が高く、うっとりとするほど均整がとれ、適度にふくよかで、つねに淡い色の手袋をつけて食事をしていた」マリー・アントワネットもきっと、これらのレシピを気に入ったのではないでしょうか。よく言われるように、彼女はオーストリア皇后エリーザベトほど体の線に気を使っていたわけではありませんが、食卓に15分以上ついていることはまれで、たいていヴェルサイユ近郊のヴィル・ダヴレーの水を飲み、もっぱらヴェルミセルや「小家禽類」のブイヨンを食べ、プロヴァンス伯爵夫人の居室で食事をとることがしばしばでした。大好物のコーヒー、チョコレート、ベルガモット入りビスケットさえあれば満足で、お椀にいれたコーヒーにお菓子をひたしながら食べ、シェーンブルン宮殿での自由な子ども時代に味わったヴィエノワズリー、シュトゥルーデル、シュークリーム、はちみつとアーモンドのマジパンの味を決して忘れませんでした。本書ではページをめくるごとに、歴史にまつわる料理の旅が展開します。様々な「エキゾティックな」食材を使った40ほどのレシピを通して、フランスや外国を訪ねてみましょう。
1789年10月5日、マリー・アントワネットがプティ・トリアノン近くの人工洞窟にいたところ、パリ市民たちがヴェルサイユに向けて行進していると書かれたサン・プリエストからのメモが届きました。こうして歴史の1ページがめくられることになります。けれども当時はまだ、誰もそのことを知りえませんでした。
[書き手]ミシェル・ヴィルミュール (作家、講師、ジャーナリスト)
食文化に関する著作は30冊以上。フランス国立料理アカデミーグランプリ、グルマン世界料理本大賞など受賞歴多数。農業功労騎士勲章、2011年芸術文化勲章シュヴァリエ。