解説
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(筑摩書房)
『梁塵秘抄』――この素敵な本は、題で随分ソンをしているように思う。たまに持って歩いていると、若い友人たちから不思議そうな目で見られる。
「わっ、さすが、モト古典の先生!」
「なにそれ、宗教関係の本?」
ものすごく難しい本を読んでいると思われ、妙に尊敬されたりして、私自身は結構トクをしているのかもしれない。
歌の素晴らしさに、梁の上の塵までもふるえてしまうという故事にもとづいての命名という。なかなかいい話で、ここに集められた歌たちにも、まことにふさわしい。
が、現在の私たちに、その故事のなじみが薄いことと、漢字が難しいこととが災いして『梁塵秘抄』という題は、少なからず読者を遠ざけてしまっているようだ。もったいないと思う。
好きな歌はと聞かれれば、まず第一にこれである。『梁塵秘抄』の歌は、どれもしらっと冷めた感じと、きゅっとせつない感じが融けあっていて、そこに惹かれる。
「しらっ」と「きゅっ」が、一番深く胸に迫ってくるのが、この歌だ。
遊びをしようとこの世に生まれてきたのだろうか――という問いかけには、何のために生まれてきたのかわからない、という純粋な疑問と、いいやそうじゃないはずだ、という複雑な反語とが、微妙に混ざっている。
そして遊んでいる子供の声を聞くと、なおその思いが深く胸を去来する。追いかけっこをしたり、勝ち負けを争ったり、歌をうたったり……子供の遊んでいる姿を見ていると、人生とは結局この繰り返しなのではないか、と思われてくる。
――正確な解釈ではないかもしれないがこんなふうに私はこの歌を受けとめてきた。「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景を考えると、少し違うのかもしれないけれど。
一度聞いたら忘れられないリズムと言葉。自分が生きていくいろいろな場面で、それはふっと浮かんできて、はっとさせて、またすっと消えていく。
遊びをせんとや生れけむ――仕事でくたびれはてた一日の終わりに、皮肉たっぷりの問いかけとして、この一節があらわれたこともある。
戯れせんとや生れけん――恋の行方の見えない夕べに、甘いため息として、つぶやいたこともある。
『梁塵秘抄』からの問いかけが、いつのまにか自分のつぶやきになってしまう。読みとれる以上の思い入れが加わって、歌を増幅させる。おそらく、数えきれない人たちが、そうやって口ずさんできたことだろう。
思い入れだけではすまずに、心の中から、こんな短歌が生まれてきたこともあった。
好きな人の心が見えない。一生懸命探そうとする。かと思うと一方で、知らず知らずのうちに、自分も心を隠していたりする。追いかけても追いかけてもつかまえられない。つかまえたと思うと今度は相手が鬼になる。何故か逃げたくなって、走りだそうとする自分。
そんなふうな、わけのわからない「恋」に疲れはてていた時だった。『梁塵秘抄』の一節が、またふっと浮かんできたのである。
恋なんてしょせんはゲームじゃないの、何をそんなに悩んでいるの、という少し突きはなした冷静な思い。それと、やっぱり自分はこの恋をするために生まれてきたんだというやや一人よがりな甘くせつない思い。
「しらっ」と「きゅっ」である。そして右(事務局注:上)の一首が生まれた。
この歌も好きなものの一つだ。存在としては常にあられる仏さまだと信じているが、目の前にはめったに現れになることはない……それがせつないし、またそれゆえにこそ慕わしい。
仏にすがりたい人間の心が、実にうまく表現されていると思う。目には見えぬものを信じる不安はあるが、ばっちり見えてしまっては、また、信じられないような気もする……。
経典の文に即している法文歌を、勝手に拡大解釈するのは恐縮だが、この歌も、恋の場面にふとあらわれることがある。
会いたくてたまらない「きゅっ」とした思いと、会えないからいいのよねという「しらっ」とした思い。二つが交叉するような時、信仰心の薄い私は、こんなふうに口ずさんでしまう。
(しかし考えてみれば、信仰とは仏への恋かもしれない)
印刷された文字として、私はまず『梁塵秘抄』の歌たちに出会ったはずだが、気がついてみると、耳から聞いて覚えたような感じがしている。さらに好きないくつかの歌は、外からきたのではなく、内から湧いてきたもののように錯覚していることがある。
その秘密がどこにあるのかは、よくわからないが、言葉の魔法にかかってみたい人にはおすすめしたい一冊だ。
そしてその秘密がどこにあるのかを、知りたくなってしまった人のために、西郷信綱版『梁塵秘抄』がある。
ただしこの本は、種あかしではない。言葉の一つ一つから時代背景までが大切に読みとかれ、歌を唄っていた人たちの声が聞こえるところまで、私たちを連れていってくれる――そんな本だ。
『梁塵秘抄』は手品ではなくて、やっぱり魔法なのだなあと思う。
【新版『梁塵秘抄』】
【この解説が収録されている書籍】
「わっ、さすが、モト古典の先生!」
「なにそれ、宗教関係の本?」
ものすごく難しい本を読んでいると思われ、妙に尊敬されたりして、私自身は結構トクをしているのかもしれない。
歌の素晴らしさに、梁の上の塵までもふるえてしまうという故事にもとづいての命名という。なかなかいい話で、ここに集められた歌たちにも、まことにふさわしい。
が、現在の私たちに、その故事のなじみが薄いことと、漢字が難しいこととが災いして『梁塵秘抄』という題は、少なからず読者を遠ざけてしまっているようだ。もったいないと思う。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそゆるがるれ
好きな歌はと聞かれれば、まず第一にこれである。『梁塵秘抄』の歌は、どれもしらっと冷めた感じと、きゅっとせつない感じが融けあっていて、そこに惹かれる。
「しらっ」と「きゅっ」が、一番深く胸に迫ってくるのが、この歌だ。
遊びをしようとこの世に生まれてきたのだろうか――という問いかけには、何のために生まれてきたのかわからない、という純粋な疑問と、いいやそうじゃないはずだ、という複雑な反語とが、微妙に混ざっている。
そして遊んでいる子供の声を聞くと、なおその思いが深く胸を去来する。追いかけっこをしたり、勝ち負けを争ったり、歌をうたったり……子供の遊んでいる姿を見ていると、人生とは結局この繰り返しなのではないか、と思われてくる。
――正確な解釈ではないかもしれないがこんなふうに私はこの歌を受けとめてきた。「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景を考えると、少し違うのかもしれないけれど。
一度聞いたら忘れられないリズムと言葉。自分が生きていくいろいろな場面で、それはふっと浮かんできて、はっとさせて、またすっと消えていく。
遊びをせんとや生れけむ――仕事でくたびれはてた一日の終わりに、皮肉たっぷりの問いかけとして、この一節があらわれたこともある。
戯れせんとや生れけん――恋の行方の見えない夕べに、甘いため息として、つぶやいたこともある。
『梁塵秘抄』からの問いかけが、いつのまにか自分のつぶやきになってしまう。読みとれる以上の思い入れが加わって、歌を増幅させる。おそらく、数えきれない人たちが、そうやって口ずさんできたことだろう。
恋という遊びをせんとや生れけむ
かくれんぼして鬼ごっこして
思い入れだけではすまずに、心の中から、こんな短歌が生まれてきたこともあった。
好きな人の心が見えない。一生懸命探そうとする。かと思うと一方で、知らず知らずのうちに、自分も心を隠していたりする。追いかけても追いかけてもつかまえられない。つかまえたと思うと今度は相手が鬼になる。何故か逃げたくなって、走りだそうとする自分。
そんなふうな、わけのわからない「恋」に疲れはてていた時だった。『梁塵秘抄』の一節が、またふっと浮かんできたのである。
遊びをせんとや生れけむ
恋なんてしょせんはゲームじゃないの、何をそんなに悩んでいるの、という少し突きはなした冷静な思い。それと、やっぱり自分はこの恋をするために生まれてきたんだというやや一人よがりな甘くせつない思い。
「しらっ」と「きゅっ」である。そして右(事務局注:上)の一首が生まれた。
仏は常にいませども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
この歌も好きなものの一つだ。存在としては常にあられる仏さまだと信じているが、目の前にはめったに現れになることはない……それがせつないし、またそれゆえにこそ慕わしい。
仏にすがりたい人間の心が、実にうまく表現されていると思う。目には見えぬものを信じる不安はあるが、ばっちり見えてしまっては、また、信じられないような気もする……。
経典の文に即している法文歌を、勝手に拡大解釈するのは恐縮だが、この歌も、恋の場面にふとあらわれることがある。
会いたくてたまらない「きゅっ」とした思いと、会えないからいいのよねという「しらっ」とした思い。二つが交叉するような時、信仰心の薄い私は、こんなふうに口ずさんでしまう。
あなたは常にいませども 現ならぬぞあはれなる
(しかし考えてみれば、信仰とは仏への恋かもしれない)
印刷された文字として、私はまず『梁塵秘抄』の歌たちに出会ったはずだが、気がついてみると、耳から聞いて覚えたような感じがしている。さらに好きないくつかの歌は、外からきたのではなく、内から湧いてきたもののように錯覚していることがある。
その秘密がどこにあるのかは、よくわからないが、言葉の魔法にかかってみたい人にはおすすめしたい一冊だ。
そしてその秘密がどこにあるのかを、知りたくなってしまった人のために、西郷信綱版『梁塵秘抄』がある。
ただしこの本は、種あかしではない。言葉の一つ一つから時代背景までが大切に読みとかれ、歌を唄っていた人たちの声が聞こえるところまで、私たちを連れていってくれる――そんな本だ。
『梁塵秘抄』は手品ではなくて、やっぱり魔法なのだなあと思う。
【新版『梁塵秘抄』】
【この解説が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする







































