書評

『文体練習』(朝日出版社)

  • 2017/08/02
文体練習 / レーモン・クノー
文体練習
  • 著者:レーモン・クノー
  • 翻訳:朝比奈 弘治
  • 出版社:朝日出版社
  • 装丁:単行本(195ページ)
  • 発売日:1996-10-31
  • ISBN-10:4255960291
  • ISBN-13:978-4255960296
内容紹介:
前人未到のことば遊び。他愛もないひとつの出来事が、99通りもの変奏によって変幻自在に書き分けられてゆく。『地下鉄のザジ』の作者にして20世紀フランス文学の急進的な革命を率いたレーモン・クノーによる究極の言語遊戯がついに完全翻訳。

レーモン・クノーの『文体練習』どんな顔をして読めばいいのか

『フィネガンズ・ウェイク』『重力の虹』といった伝説の名作が最近になって翻訳されたが、フランス文学で残る「伝説」はというと、レーモン・クノーの『文体練習』じゃないかと思っていたら、とうとうこれも翻訳されてしまった(朝比奈弘治訳、朝日出版社)(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年ごろ)。

ひとつの出来事(バスの中でひとりの若者が乗客に文句をいい、その若者が別の場所で友人から「コートにボタンをもう一つつけた方がいい」といわれている)を「九十九通りの文体で書き分けた」この作品だが、読みはじめる前に、いったいどういう顔をして読めばいいのかと考えこんでしまった。

どうでもいいような無内容なシーンを九十九通りの文体で書き分けるなんて、はっきりいって「文学的蛮行」ではないか――とまあ、ふつうはそう思う(清水義範は違うかもしれないけど)。書いてる方はいいかもしれないが、読まされる方はたいへんだ。だいたい、この作品の原型が完成したのは五十年も前で、まだ「前衛」になにか意味があった頃だ。そういうとわかりにくいが、社会党の議席が百五十もあって、ギンギンに左翼していた時だというと、ほんとに昔だったのねとわかるだろう。どうも、以前から「左翼」と「前衛」は不思議な連動をしていて、政治の方で「左翼」の価値がアップすると、文学の方で「前衛」の価値もアップする気配を見せる。そういうわけで、「左翼」が大暴落したいまでは、「前衛」の方の人気も極端な下落を見せていて、クノーの『文体練習』のような、古典的な「前衛」をいま読むのは、なんだかちょっとこわいような気がしたのだった。

しかし、そんな心配をする必要はなかった。レーモン・クノーという作家は「前衛」的ではあったけれど、そういう看板やスローガンを超えた、なんともチャーミングな作家だったのだ。なんてったって、『地下鉄のザジ』の作者だものね。

さて、ぼくはフランス語がまったくできないので、翻訳の当否については判断できない。できないけれど、訳者は大変だったろうと想像はできる。訳者も書いているように、こういう作品の翻訳をしていると、日本語という言語がいかに懐が深いかわかってくるところがいちばん面白いのではないか。No.70の「英語かぶれ」は「むやみに英単語を使いたがる英語かぶれのフランス人がしゃべっていることばを、その下手な発音通りにフランス語的に表記したもの」で、原文ではたいへんな乱れとなって現れるのだが、これを日本語でやってみると、「わけのわからない文章でも立派に(?)通用してしまい」、訳者の方でもびっくり。

ハーイ。ワン・デイのミッデイにバスに乗ったらねっ、グレート・ネックのヤングマンがいてさっ、シチーボーイを気取ってんだよ、いわゆるひとつのカインド・オブ・レースを、ハットにつけちゃってさ……

なんだ、これ、長嶋語じゃん。

それから、No.73は「語尾音付加」という、すべての単語に特に意味のない音を一つずつ加えるという規則で書かれているが、訳者は、それを若干変更して、語尾の母音を伸ばしてみる。

ねえねえぇ、この前さあぁ、お昼にいぃ、バスとかのぉ、うしろのぉ、デッキでぇ、変なやつをぉ、見たんだけどぉ、首がぁ、すっこい長くてぇ……

なんと、これ女子高生文体になってしまったのだった。だから、ここの部分の最後はちゃんと、「ちょーバッドだよねええええ」となっているのだった。この翻訳、クノーも喜んでくれるんじゃないだろうか。

【この書評が収録されている書籍】
退屈な読書 / 高橋 源一郎
退屈な読書
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1999-03-00
  • ISBN-13:978-4022573759
内容紹介:
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

文体練習 / レーモン・クノー
文体練習
  • 著者:レーモン・クノー
  • 翻訳:朝比奈 弘治
  • 出版社:朝日出版社
  • 装丁:単行本(195ページ)
  • 発売日:1996-10-31
  • ISBN-10:4255960291
  • ISBN-13:978-4255960296
内容紹介:
前人未到のことば遊び。他愛もないひとつの出来事が、99通りもの変奏によって変幻自在に書き分けられてゆく。『地下鉄のザジ』の作者にして20世紀フランス文学の急進的な革命を率いたレーモン・クノーによる究極の言語遊戯がついに完全翻訳。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

週刊朝日

週刊朝日

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
高橋 源一郎の書評/解説/選評
ページトップへ