書評
『はまむぎ』(水声社)
レーモン・クノー(Raymond Queneau 1903-1976)
フランスの作家。シュルレアリスム運動に身を投じるも1929年に決別。『はまむぎ』(1933)を皮切りに、多くの詩や小説、批評、エッセイ、翻訳を発表し、1960年には文学実験集団「ウリポ」をスタートさせる。『地下鉄のザジ』(1959)映画化により、クノーの名は広く知られるようになった。そのほかの著作に、『オディール』(1937)、『文体練習』(1947、増補新版が1973)、『青い花』(1965)、『イカロスの飛行』(1968)などがある。introduction
ぼくがソフトハウスの新人プログラマとして、連日の夜勤をこなしながら、昼間は旅館で『はまむぎ』に耽溺した体験は、前著『ブックハンターの冒険』(学陽書房)に書いた。あれは、わが生涯でも奇妙な時期だった。いまから四半世紀近くも前である。そのころすでにクノーは何冊も邦訳があったものの、その大半が品切れになっていた。『青い花』や『イカロスの飛行』、また『人生の日曜日』と『きびしい冬』を収めた集英社の《世界文学全集》を見つけたときは、古本屋の店内が光につつまれた気がしたものだ。『イカロスの飛行』はその後、ちくま文庫で読めるようになって……。と思ったら、これもいまは品切れだという。さいわい、『はまむぎ』と愉快痛快言語実験の大傑作『文体練習』は、まだ新刊で入手可能のようだ。すぐに本屋に走れ!▼ ▼ ▼
クノーは、チュツオーラの『やし酒飲み』を読んで刺激を受け、自らフランス語訳を手がけ、チュツオーラ作品を世に広めるのに一役買ったという。さてこそ! このふたりの作家は、物語づくりのしきたりに頓着しない闊達さにおいて通じるものがある。文学的おいたちということではまったくちがう流れに属しながらも、それを超越した合縁奇縁でつながっている。ただし、チュツオーラは語りのはずしかたはすばらしく剛胆だが、不思議の度合いでいえばクノーのほうが数段上だ。
ここでは、ぼくがとびきり気に入っている作品『はまむぎ』を取りあげよう。この長篇には、たくさんの人物が登場して、妙な具合にお互いが絡みあっていくのだが、なかには一度名前が出てきたきり姿を見せなくなってしまう男もいる。
女たらしのポティスは、何千人の女のうちからひとりを選び、そのあとをつけている。女の顔は見ていない。後ろ姿だけだ。これは賭なのだ。昔なじみの芸術家ナルサンスも誘い、一緒にその女のあとをつける。北駅のまえで、ふたりは女においつけなくなってしまう。ナルサンスはすんでのところで彼女が乗った列車にすべりこむが、ポティスがついてこない。
そのあとナルサンスは女の家までつけていき、複雑な物語に関わることになるのだが、ポティスがどうしたのかはずっと語られない。読者もまったく重要でない一介の脇役としてすぐにこの男のことなど、頭の片隅に押しやってしまう。百ページ以上すぎてから、ナルサンスがほかの男と自動車事故のことを話していて、おなじような状況で轢き殺された親友のことを思いだす。そう、その親友というのがポティスである。読者はここではじめて教えられるのだ。女のあとをつけていったあのとき、ポティスの姿が見えなくなったのは、クルマに轢かれたからだということを。たぶんナルサンスもそのときは事故に気づかず、あとから知ったのだろうが、そうした事実のつながりはまったく説明されない。
なんじゃ、こりゃ、というかんじだが、クノーはべつに読者を驚かしてやろうとしているふうでもない。そういえば、クノーの自伝的小説『オディール』でも、表題となっている重要な人物のはずのオディールがなかなか物語に登場せず、突然「ワニがやにわにオディールをかじる」という詩の一節のなかにあらわれるという具合だった。そういう書きかたが、クノーにとってはあたりまえなのだろう。
ところで、ポティスの事故死はほかのエピソードにも関係しているのである。主要登場人物のひとりクロシュ婆さんは、北駅のまえのカフェに陣取って、だれかがクルマに轢かれないだろうかと期待している。婆さんのこの奇癖は、この小説のずっと前で描かれていて、それが彼女とこの小説の主人公エティエンヌ・マルセルが知りあうきっかけにもなる。しかし、クロシュ婆さんが事故を待ちうける習慣をはじめるきっかけになったのが、ほかならぬポティスの事故であることは、ナルサンスの回想の時点でようやく明らかにされる。
『はまむぎ』という作品にみなぎっている独特な空気は、もう実際に読んでくださいというしかない。あえて表現するならば、短距離(つまり場面ごと)ではつじつまがあっているのだけど、長距離(物語全体の骨組み)では因果関係がねじれていたり、途中が飛んでいたり、順序がひっくりかえっていたりする――ということになるか。
クノーはこの作品を「デカルトの『方法序説』を口語に訳す」意図で書いたというふれこみだが、まあ、それは話半分に聞いておいたほうがよさそうだ。冒頭では“影”として登場した人物が、内省から世界の認識にむかうにつれて、偏平な存在、最低の実在……と成長(?)していく過程が描かれるあたりが、それっぽいと言えそうだが、内省のきっかけとなるのがなんと防水帽に張られた水に浮いているゴムのアヒルなのだ。この“影”は、当初は名前すら与えられないのだが、最低の存在感を獲得したあたりで、エティエンヌ・マルセルとして紹介される。
ぼくがとりわけ面白かったのは、エティエンヌがふだんの通勤列車では見すごしていた車窓の外に風景に意識をむけて、工場の向こうに見えたフライド・ポテトの看板に「いつかあそこにいってポテトを食べてやろう」と決心するくだりだ。そんなくだらぬことが、彼にとっては「まったく途方もない計画」である。ぼくもこれとおなじようなことを、しばしば思いついているので、身につまされる。
意を決してポテトの看板を出している居酒屋を訪ねると、そこにクロシュ婆さんがいて「あんたは北駅でクルマに轢かれかかった男だね」と声をかけられる(たしかにそんなことがあった)。あげくに、この店の主人や常連たちから大歓迎され、すっかり舞いあがってしまうのだ。それやこれや、登場人物どうしが、カン違いスレ違い思いこみ出会いがしら勢いあまって、次々と妙な事件が持ちあがっていく。ナルサンスがあとをつけた女というのがじつはエティエンヌの妻だったり、この妻の連れ子テオが不埒なナルサンスを殺してやろうと企てたり、金持ちのピエールはエティエンヌが実在性を増すのに興味を持って彼を観察しつづけたり……。クロシュ婆さんはエティエンヌとピエールが詐欺師ではないか、彼らは古物商のトープ爺さんが秘匿している財宝を狙っているに違いないと誤解をし、それを横取りする計略を立てはじめる。この計略に荷担する者、知らず知らずに巻きこまれる者、通りすがりのように出てくる新しい登場人物、まったくにぎやかだ。エピソードのつながりや登場人物どうしの結びつきをメモしながら読んでいたのだが、すぐにノートが真っ黒になってしまった。
輻輳する物語の大きな区切りになるのが、フランスとエトルニアとの戦争勃発である。闘いは何十年もつづき、軍人の命が多くが失われ、フランスはゴール(ガリア)にもどり、エティエンヌは元帥になっていた。戦争はエトルニアの勝利で決着するが、この国の女王というのが、なんとクロシュ婆さんなのである。いったいどうして?
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