書評
『背表紙の学校』(講談社)
「もし僕らが賢くあれば」の思い
ロシア文学研究者でもあり翻訳者でもある奈倉有里さんのエッセイ集である本書は、子どものころのある記憶からはじまるのだが、それがなんとなくこわい。奈倉さんご本人はさほどこわがっておらず、それがのちの本にたいする基軸となったと書かれている。不思議な夢のようなこのエピソードは、このエッセイ集の暗示的な導入にも思える。また、幼少期の奈倉さんは、「なんにもないときのことを、覚えることはできる?」と疑問を持ち、果敢に挑戦する。あるある、子どものときってそういうことするよな、と微笑(ほほえ)ましく読んだそのあとで、この「記憶の自由」は、じわじわと私の心の奥深くに触れてくる。
やわらかい、語りかけるような文体で、ロシア語の詩をふんだんに交えながら、著者はサンダル履きで山に登ったり、だじゃれを考案したりする日々を描いているので、つい気を抜いて読んでしまうのだが、だんだん、じょじょに、この一冊にこめられた、文体とは裏腹の、とてつもなく激しく熱い思いに気づかされる。ロシアで暮らしていた著者だからこそ体感してきた、激動の歴史と、それを背景に読まれた幾多の詩。そしてこの十数年のあいだに起きたクリミア併合からウクライナ侵攻、続く紛争、市民の分断、強まる弾圧、そのなかで暮らす、ごくふつうの人たちの苦しみに接し、著者は猛烈に憤っていて、でもその憤りは裏返せば平和への強い希求である。
この本の持つ、その強烈な熱に気づいたとき、記憶の自由も、笑いも、すべて意味が一変する。それらは絶望しそうな世のなかにいるときの、私たちの何より強い防具になると気づかされる。
著者の引用する詩のすべても、みな、難解な言葉ではなく、平易で普遍的な言葉が用いられているので、著者が説明してくれる背景を知らなければ、たんに落葉に注意するように呼びかける詩であったり、失恋をかなしむ詩であったり、子どもを連れて歩く貴婦人の詩であるように思える。けれどその背景を知ると、言葉の意味ひとつひとつが色合いを、重みを変える。
たとえば、最後の章「不安なときを越えて」に引用された、暗い時代に向かう不安を謳(うた)う詩に、思わず絶望しかける読み手の私に、著者は、上を向かせ視点を変えるようなべつの詩も紹介する。著者の説明する「情報衛生」ということの意味と、重要さを思い知る。
冒頭のエピソードだが、なぜ私はこわいと感じるのか。最初は、ただ知らない人が声をかけてくる状況がこわかった。けれど本書を読み進むにつれて、私も今この瞬間に、知らないだれか、子どもにとっての大人のような存在から、自分にとって必要そうなものをちらりと見せられ、これは必要ではないよね? と訊(き)かれ、うなずいてしまったばっかりに、何かが――たとえば平穏や平和みたいなものが――遠のいていくような、そしてずっと、あれはなんだったのだろうと考え続けるしかない、そんな気がしてくるからだ。作中に引用されている詩になぞらえれば「もし僕らが 賢くあれば」、それは必要なのだと自分の言葉ではっきりと言えたかもしれないと、思ってしまうからだ。
私にとって、今、本書は真に必要な一冊だった。
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