書評
『人間の尊厳と八〇〇メートル』(東京創元社)
行間に浮き上がらせる人間心理
作者は今年度、本書の表題作で日本推理作家協会賞の、短編部門の受賞を果たした(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2011年)。受賞作は、いかにもミステリーらしい、切れ味のよい佳作である。とあるバーにはいった〈私〉が、見知らぬ男の先客から「俺と八〇〇メートル競走をしないか」と持ちかけられる。男は〈私〉が持っていた5万円に対して、土地の権利書を賭けるという。〈私〉が一瞬やってみようかという気になりかけたところへ、もう1人の相客が自分も賭けに参加させてほしいと言い出す。賭けを提案した男はなぜか急に尻込みして退散する。相客によれば、その男は「元八〇〇メートルの選手」だった、というのだが……。
前半は、男が〈私〉を賭けに引き込むために、量子力学の話を延々とするので、いささか取りつきにくい。ここは少々、作者の思いが強すぎた感がある。話の結末は、ミステリーを読み慣れた者なら想像がつくかもしれない。それでも、どんでん返しをさらりと処理し、余韻を残して終わるあたりは、なかなかの書き手だ。
そのほかの短編は、いずれもミステリー色は薄いものの、人間の心理を行間に浮き上がらせる筆致はフランス文学者としての作者の面目をよく伝えている。「北欧二題」では固有名詞を含むすべての外来語を、漢字(当て字)で表記する試みが行われ、それなりの効果を上げている。
全体の、ほぼ3分の1を占める「蜜月旅行」は、新婚旅行でパリを訪れた夫婦の観光小説といってもよい。ところが、そこに結婚前には気づかなかった、2人の価値観の相違が忍び込み、しだいに緊張感を高めていく。いっとき〈成田離婚〉かと思わせるような展開にもなるが、ある事件をきっかけに結局はもとのさやに収まる。
予定調和には違いないが、サスペンスの醸成が巧みなだけに、読後感はいっそさわやかだ。
朝日新聞 2011年11月13日
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