書評

『パリ日記』(月曜社)

  • 2017/08/12
パリ日記 / エルンスト・ユンガー
パリ日記
  • 著者:エルンスト・ユンガー
  • 翻訳:山本 尤
  • 出版社:月曜社
  • 装丁:単行本(461ページ)
  • 発売日:2011-06-01
  • ISBN-10:4901477846
  • ISBN-13:978-4901477840
内容紹介:
ドイツ占領下のパリに国防軍将校として配属されていた20世紀ドイツを代表する作家・思想家ユンガーが、パリの作家・芸術家たちとの交流、祖国の破滅的な運命に対する省察、ヒトラー暗殺計画グループへの関与など、透徹した思索と行動を記した日記文学の白眉。

占領下に交錯する作家の幸福と危惧

一九九八年に一〇三歳で没したドイツの作家・思想家エルンスト・ユンガーが大尉として赴いた占領下のパリで記した日記の全訳である。

ユンガーは第一次大戦の苛酷な体験を『鉄鋼の嵐の中で』で肯定的に描き、「英雄的リアリズム」の旗手としてデビュー、ナチズムにも影響を与えたが、ナチ政権とは一線を画し、『大理石の断崖の上で』ではむしろ反ナチの立場を取った。第二次大戦では友人の参謀本部幕僚長シュパイデル大佐によってパリの参謀本部で軍とナチ党の確執を巡る関係資料収集の任務を与えられ、途中半年のコーカサス勤務を挟んで一九四一年二月から一九四四年八月までパリで暮らした。本書は占領下のパリの詳細を知りたいと思う者にとって長らく翻訳が待たれていた第一級の資料である。

といっても、仕事上の秘密はほとんど書かれていない。ときにレジスタンスの闘志エスティエンヌ・ドルヴ(アンリ・オノレ)に関する記述や「ナントで射殺された人質たちの遺書を翻訳する。(中略)人間は死刑を宣告された瞬間に盲目の意志から歩み出て、あらゆる関連の中の最も内奥にあるのは愛だということを見抜くもののようである」といった感想があらわれるが、それはごく稀で、日記の眼目はレストランやカフェで出会ったドイツ人やフランス人の文学者や芸術家の印象を記すことにある。私のようなフランス屋にとってはこうした部分がまことにありがたい。

たとえばコクトー。「正午、シャルル・フロケ通りのモランのところ。そこでガストン・ガリマールとジャン・コクトーにも会う。(中略)コクトー。好感のもてる人物だが、同時に、特別の、何とか快適に住める地獄に留まっている人物が抱くような苦しげな悩みを抱いている」。コクトーは別のところで、喘息を防ぐためにプルーストが講じた異常なまでの配慮についてユンガーに詳しく語っている。

反ユダヤ主義者で『夜の果てへの旅』で知られるセリーヌも出てくる。「彼【セリーヌ】はわれわれ兵士がユダヤ人を射殺しないこと、絞首刑にもしないし、絶滅させることもしないことに奇異の念を抱き、驚いていると言う。(中略)こうした人間はただ、一つのメロディーしか聞く耳をもたない。しかしそのメロディーは異常なまでに迫力のあるものである。彼らは鋼鉄の機械であって、解体されないかぎり自らの道を辿る」。さすがユンガー。セリーヌの本質を正しく見抜いている。ほかにユンガーが付き合ったフランス人にはポール・モラン、マルセル・ジュアンドー、ブノワ=メシャンなどがいて、それぞれに興味深い逸話が記されているが、しかし、ユンガーがパリで一番親しくしたのは意外や、古書店主プペである。「午後、ガランシエール通りのプペを訪ねる。サン=シュルピス界隈(かいわい)のこの辺りの小路には骨董屋や古書店や古道具屋があって、私はもう五百年もそこに住んでいたかのような馴れ親しんだ感じを受ける」。プペは自分が眼にしたことのある最も美しい献辞は「ヴィクトル・ユゴーへ シャルル・ボードレール」であったと語って、自筆書簡収集家であるユンガーを羨ましがらせる。

もう一人、頻繁に登場するのが「女医さん」とか「シャルミエ」と呼ばれている既婚婦人。ユンガーはこの知的な女性との会話を何よりも楽しみにしていたようで「私は女性との精神的な出会いに喜びを見いだすためにこの歳まで生きて来たといわねばならなかった」と書いている。パリをこよなく愛したユンガーはまたパリジェンヌも深く愛したのである。

このようにユンガーの『パリ日記』は類(たぐ)い稀な幸福感に満ちているが、戦況がドイツ不利となった後半の日記には東部前線から帰還した知人から聞いた凄まじい逸話、強制収容所で行われているユダヤ人絶滅の噂、さらには祖国ドイツの暗い運命についての省察などが多くなる。そして、ついにヒットラー暗殺計画が登場する。

「ホーファッカーは言う、祖国は今この上ない危険にあり、破局はもはや避けることはできない、せめてはそれを軽くするか、制限するかである。(中略)前提はクニエボロ【ヒットラー】の消えることである、彼は爆破されねばならない、大本営で状況分析がなされているときがそのための最上の機会である」。ユンガーはこの暗殺計画に危惧を呈する。「私は暗殺計画の見通しについて私が抱いていた懐疑と不信感と嫌悪の情を述べた」

結局、ユンガーは暗殺計画関与の疑惑を免れたが、パリ解放直前に軍役を解かれ、一九四四年八月一三日にパリを去る。「午後、あちこちにお別れの挨拶。最後の会見。シャルミエとセーヌの岸辺を散歩。大きな転機はどれも無数の個人的な別れの中で行われる」

日記は読書日記でもあり、大知識人ユンガーの思想的遍歴を辿る上でも貴重な資料となっている。訳者は七年前に脳梗塞で倒れ、介護ベッドで翻訳を完成したが、出版社が後込みしたために三〇部だけ自費出版。本書はその再刊である。(山本尤訳)
パリ日記 / エルンスト・ユンガー
パリ日記
  • 著者:エルンスト・ユンガー
  • 翻訳:山本 尤
  • 出版社:月曜社
  • 装丁:単行本(461ページ)
  • 発売日:2011-06-01
  • ISBN-10:4901477846
  • ISBN-13:978-4901477840
内容紹介:
ドイツ占領下のパリに国防軍将校として配属されていた20世紀ドイツを代表する作家・思想家ユンガーが、パリの作家・芸術家たちとの交流、祖国の破滅的な運命に対する省察、ヒトラー暗殺計画グループへの関与など、透徹した思索と行動を記した日記文学の白眉。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2011年07月17日

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