書評
『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋)
20枚の録音盤から浮かび上がる謎
二・二六事件の叛乱将校や皇道派関係者の電話交信は何者かによって盗聴・録音され、その半分の録音盤二十枚がNHKの放送文化財ライブラリーに保存されていた!一九七九年二月二六日、NHK総合テレビ「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』」で紹介された新事実は大反響を呼び、関係者と子孫が複数名乗り出て、録音盤の謎は解明されたかに見えたが、その後、重要資料が発見され、二十枚の録音盤の謎は、北一輝の死刑判決問題や「陸軍大臣告示」の問題へと繋(つな)がっていくことになる。本書は番組制作担当者が当事者や遺族に録音盤を聞かせて取材を続ける一方、さまざまな資料を総合して二・二六の闇に迫った力作である。
番組の放映直後に名乗りをあげたのが「録音科学研究所」の出資者西沢東吉。録音機は後に反乱幇助(ほうじょ)で無期禁固の判決を受けることになる歩兵一連隊山口一太郎大尉および参謀本部二部四班(班長・武藤章)からの委嘱で「録音科学研究所」が開発したものだが、皮肉にも「二・二六事件では、山口一太郎大尉らが発明した円盤録音機が、同志である青年将校らの声を記録することになる」。
次いで放映半年後に名乗り出たのが傍受・録音担当者だった濱田萬(はまだよろず)工兵大尉。大尉は事件勃発と同時に戒厳司令部から命令を受け、叛乱軍が占拠した首相官邸、料亭幸楽、山王ホテルなどのほか、皇道派将軍の自宅、黒幕とされた北一輝、西田税の自宅、さらには鎮圧側の陸相官邸、憲兵司令部、参謀本部、ドイツ大使館などの通信も傍受したのである。
では、この傍受・録音を命令したのは誰か? 著者は事件時に参謀本部一部参謀だった難波三十四(さとし)大尉の証言を聞くことができた。「傍受・録音は、幾多の曲折を経て戒厳司令部で決定され、戒厳参謀・難波大尉の命令として実行者に下達された」のである。だが、録音盤の謎をたどっていくと最終的には二・二六最大の謎である「陸軍大臣告示」の下達時間の問題に行きつくが、これは軍法会議主席検察官匂坂(さきさか)春平の子息が放映から八年後に遺品の検察資料の開示に同意したことで決定的な光を当てられることになる。
著者は膨大な匂坂資料を分析して、資料中の「電話傍受綴」が二〇枚の録音盤と符合するばかりか、傍受が事件発生一カ月以上前から事件後の三月六日まで皇道派関係者を中心に行われていた事実を知って驚くと同時にいくつかの疑問を感じるに至る。
その一つは、ラベルに「2/29北→安藤」とペンで書かれた録音盤の謎である。北一輝を名乗る人物が「幸楽」にいる安藤輝三大尉に電話をかけてきて「マル、マル、カネはいらんかね」と繰り返しているのだが、匂坂資料の「電話傍受綴」に当たると「北→安藤」にほぼ等しい内容が記録され、通話日時「二月二十八日午後11時50分頃」と記されている。ところが北一輝を二月二八日の夕刻に逮捕した東京憲兵隊の福本特高課長は、北一輝への尋問記録の中でこの電話は「二月二七日」にあったと故意に日時を一日ずらしているのだ。つまり、獄中の北一輝が安藤大尉に電話をかけるという矛盾を隠す辻褄(つじつま)合わせが行われたのだが、では、この北一輝を名乗る人物は誰だったのか? また、偽電話の目的は?
もう一つのより重大な疑問は二月二六日に発せられた「陸軍大臣告示」(当初は「陸軍大臣より」)の問題である。というのも、正午に開かれた軍事参議官会議でまとまった「陸軍大臣より」の文案中の「諸子の真意」の言葉は、午後三時二〇分に戒厳司令部から下達された「陸軍大臣告示」では「諸子の行動」にすり替えられているからである。
この疑問は、匂坂資料の解読を続けるにつけさらに深まってゆく。東京憲兵隊長坂本俊馬大佐が香椎浩平中将の告発を具申した手紙が資料に含まれていたからである。大佐は二六日午前一〇時五〇分にはすでに近衛師団に「陸軍大臣告示」が下達されていた事実を突き止め、「香椎中将が、軍事参議官会議決定のいわゆる『大臣告示』以外に、別個の『大臣告示』を準備しており、事前にそれを下達していた事実を確証」すべしとする。つまり、香椎中将は軍事参議官会議が開かれる以前に「諸子の行動」と記した「大臣告示」を近衛師団に下達していたというのだ。これを受けたのか、匂坂検事は「香椎司令官を逮捕し、強制捜査によって、叛軍を統帥系統に入れた事情と、『陸軍大臣告示』の成立と下達の事情を徹底的に明らかにしようとした」が、陸軍大臣寺内寿一の「指揮権」発動で挫折する。
陸軍はその明白な事実から目をそらし、責任問題を有耶無耶(うやむや)にしたまま、二・二六事件を歴史の闇の中に封印してしまったのである。
二十枚の録音盤は二・二六事件が近代日本の分岐点であったことを今もなお忘却の淵から語り続けているようだ。
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