書評

『私家版・ユダヤ文化論』(文藝春秋)

  • 2017/10/25
私家版・ユダヤ文化論  / 内田 樹
私家版・ユダヤ文化論
  • 著者:内田 樹
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(241ページ)
  • 発売日:2006-07-20
  • ISBN-10:4166605194
  • ISBN-13:978-4166605194
内容紹介:
ノーベル賞受賞者を多数輩出するように、ユダヤ人はどうして知性的なのか。そして「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」。サルトル、レヴィナスらの思想を検討しながら人類史上の難問に挑む。

非ユダヤ人が嫉妬した超絶思考法

ユダヤ人問題を語るのは難しい、と著者は繰り返し言う。なぜなら、「ユダヤ人は……」とひとこと言っただけで、語っているその人もそれを聞いている人も「ユダヤ人とは何ものであるか」を既に知っていて、ユダヤ人擁護論に立つか断罪論に立つか立場表明を済ませていることが暗黙のうちに了解されているからだ。

すなわち、ユダヤ人とは国民国家の構成員でもなく、人種でもなく、宗教共同体でもない「なにか」であるが、ではこの「なにか」とはなにかとなると、さしあたり、ユダヤ人という概念は「お前はユダヤ人だ」と名付けてこれを差別・迫害する人が出現すると同時に出現したと、同義反復的に定義するしかないのである。

サルトルは、この定義から出発して、ユダヤ人迫害には根拠がない、ユダヤ人とは反ユダヤ主義者が幻想的に作り出したものであると結論したが、この結論は「政治的には正しく」とも、現実のユダヤ人問題にはなんの実効的な解決ももたらさなかった。

しからば、反ユダヤ主義者のように「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と考えればいいかといえば、それはホロコーストに同意署名する「政治的に正しくない答え」になってしまう。つまり、どちらも選ぶことができない罠(わな)があるのだ。その罠を回避し、問題に接近するため著者が取ったのは、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある」という、一つ次元を繰り上げた問題設定である。

著者はここから出発し、ラカンの二項対立のスキームを借りて「『ユダヤ人』というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである」という作業仮説を立てた後、終章の「終わらない反ユダヤ主義」でより大胆な仮説の構築に挑む。

その際、著者はあえてユダヤ人ノーマン・コーンの「ユダヤ人はなぜ特別の憎しみを受けるのか」という反ユダヤ主義と非難されそうな議論に踏み込みつつ、それに「ユダヤ人はなぜあれほどイノベーティヴなのか」という問題をからませて、仮にこう結論する。「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に『知性的』と呼んでいるのである」

では、そのユダヤにおいて標準的な思考傾向とはなにか?

それは、エマニュエル・レヴィナスが『ヨブ記』の中に発見したユダヤ的アナクロニズム(時間錯誤)である。すなわち、人間は神の世界創造に遅れてきたために、自分が犯しもしない罪についてすでに有責である、ゆえにすべての責任を引き受けるように成熟していかなければならないという時間の倒立した思考法である。非ユダヤ人は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を置くが、ユダヤ人は「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間を溯(さかのぼ)った起点に置くのだ。

非ユダヤ人にとってこうしたアナクロニズムはどうしても思いつかない超絶思考法であった。そして、そのユダヤ人の知性の効率的な使い方に非ユダヤ人は嫉妬(しっと)し、激しい欲望を感じ、「その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意」を抱くにいたったのだ。

構造主義を完全に自家薬籠中のものにした著者だけに可能な独創的ユダヤ人論。
私家版・ユダヤ文化論  / 内田 樹
私家版・ユダヤ文化論
  • 著者:内田 樹
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(241ページ)
  • 発売日:2006-07-20
  • ISBN-10:4166605194
  • ISBN-13:978-4166605194
内容紹介:
ノーベル賞受賞者を多数輩出するように、ユダヤ人はどうして知性的なのか。そして「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」。サルトル、レヴィナスらの思想を検討しながら人類史上の難問に挑む。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2006年9月17日

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