書評

『たまらん坂 武蔵野短篇集』(講談社)

  • 2017/10/31
たまらん坂 武蔵野短篇集 / 黒井 千次
たまらん坂 武蔵野短篇集
  • 著者:黒井 千次
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(264ページ)
  • 発売日:2008-07-10
  • ISBN-10:4062900173
  • ISBN-13:978-4062900171
内容紹介:
たまらん坂、おたかの道、そうろう泉園―実在する奇妙な土地の名前が、初老期に差しかかった男達の心に漣を立て、探索とも長い散歩ともつかぬ武蔵野行へと誘う。日常と皮膜一枚で隔たった異境で… もっと読む
たまらん坂、おたかの道、そうろう泉園―実在する奇妙な土地の名前が、初老期に差しかかった男達の心に漣を立て、探索とも長い散歩ともつかぬ武蔵野行へと誘う。日常と皮膜一枚で隔たった異境で彼らが出会う甘やかな青春の残像、人も自然も変貌する現実の苦味を、清澄な筆致で描く連作短篇集。『時間』『群棲』など、時間と空間の交点に、深い人生の味わいを醸し出す黒井文学の豊かな収穫。
武蔵野短篇集という副題を持ったこの小説集を読んで、かつて自分が住み、今、作品の舞台に設定されている東京郊外の風景が、なつかしく、また意外な陰影をおびて蘇ってくるのを憶えた。黒井千次が住んでいる近くの小学校に通い、同じような環境の中学、高校を卒業した私には、どの作品の背景も、思い出のなかに蔵われている場所である。それだけに、この二、三十年の変化は烈しかったのだということも分る。

作者は、その変貌の奥に、現代に生きる人間のあてどなさ、判断中止を要求されるような価値の多様化、時代に翻弄される男の疲れや心のたゆたいを凝視することで、かえっていきいきとかつての武蔵野の面影を復活させた。その意味では、各篇に登場する中年の主人公も、主人公がいつも気兼ねし大切にもしているその家族も、武蔵野の深層を伝える媒体になっているということができる。

表題に使われている『たまらん坂』の中に、帰宅するために俯きがちに坂を登っているうちに、男のからだが少しずつ家に向けて馴染んでくる、という表現がある。家とは男にとって現実世界であり日常であった。坂が、作品のなかで次第に現代の象徴としての存在感を持ってくるのは、男が疲れた肉体とそれに相応する疲れた心を引曳っているからだ。彼(要助)は何に疲れているのだろう。

「おたかの道」を歩く男は、想像していた道が、自動車が烈しく往来する表通りに平行して、ありふれた郊外住宅のすぐ裏側を冗談のように走っているのを発見する。道はアパートのブロック塀で突然中断される。そこを歩いているのは孕み女であり、スーパーの買物袋を提げた主婦であり、見えるのは錆びた子供の自転車、つまりそこには日常が屯しているのである。

「せんげん山」でもそうだが、この作品集に登場する男は、勤め人の場合は窓際族である。流れに乗らず、乗ろうともしないから、時の移り変りを感じることもできるし、生きてゆくことの哀しさや苦い味いも見えてくるのだ。単なる風景を超えて武蔵野の歴史が姿を現す。

この歴史は、妖しげな雰囲気や、この世のものとも思えぬ風情を持った女性の登場によって彩色をほどこされ、彼女達への心のときめきを通じて実在の光景として現前する。だから自然の佇いは、もともとそこに実在しているのかどうか不確かでもあるのだ。「自分が果して野火止用水に出会えたのかどうか」と我に返った「のびどめ用水」の主人公は考える。

黒井千次の武蔵野は、かつて国木田独歩が讃えた武蔵野と、どれほどか遠く隔っていることだろう。そうして、このような風景は今日全国に拡がっているのである。風景とはまさしくその時代の精神の姿なのだということを、この作品集は訴えているようだ。

【この書評が収録されている書籍】
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本 / 辻井喬
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本
  • 著者:辻井喬
  • 出版社:勉誠出版
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2009-07-21
  • ISBN-10:4585055010
  • ISBN-13:978-4585055013
内容紹介:
作家・辻井喬の読んだ国内外あらゆるジャンルの書籍を紹介する充実のブックガイド。練達の読み手がさそう至福の読書案内。

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たまらん坂 武蔵野短篇集 / 黒井 千次
たまらん坂 武蔵野短篇集
  • 著者:黒井 千次
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(264ページ)
  • 発売日:2008-07-10
  • ISBN-10:4062900173
  • ISBN-13:978-4062900171
内容紹介:
たまらん坂、おたかの道、そうろう泉園―実在する奇妙な土地の名前が、初老期に差しかかった男達の心に漣を立て、探索とも長い散歩ともつかぬ武蔵野行へと誘う。日常と皮膜一枚で隔たった異境で… もっと読む
たまらん坂、おたかの道、そうろう泉園―実在する奇妙な土地の名前が、初老期に差しかかった男達の心に漣を立て、探索とも長い散歩ともつかぬ武蔵野行へと誘う。日常と皮膜一枚で隔たった異境で彼らが出会う甘やかな青春の残像、人も自然も変貌する現実の苦味を、清澄な筆致で描く連作短篇集。『時間』『群棲』など、時間と空間の交点に、深い人生の味わいを醸し出す黒井文学の豊かな収穫。

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初出メディア

産経新聞

産経新聞 1988年9月5日

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