書評

『メイプルソープ』(新潮社)

  • 2017/10/19
メイプルソープ / パトリシア・モリズロー
メイプルソープ
  • 著者:パトリシア・モリズロー
  • 翻訳:田中 樹里
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(393ページ)
  • ISBN-10:4105405012
  • ISBN-13:978-4105405014
内容紹介:
完全なる瞬間を写し取る天才的感性とタブーなき同性愛美学を融合し、写真の域を超えたアート界の寵児となりながら、エイズにより早世した写真家ロバート・メイプルソープ。その苛烈な生涯を彼自身の声と綿密な取材で明かす。悪魔的なまでの成功願望、ドラッグや同性愛SMへの凄まじい耽溺、魂の恋人パティ・スミスとの交流等、美と欲望に憑かれた男のポートレイト。
ロバート・メイプルソープは、日本ではきわめて不幸な形で紹介された写真家だった。まず彼は心もとないニューヨーク風俗写真評論家によって、女性ボディビル・モデルのリサ・ライオンの座付き写真家として紹介された。90年代初頭に東京目黒の庭園美術館で開かれた、最初の大がかりな回顧展では、公序良俗を転覆させかねない力をもったエロティックな映像のことごとくが壁から外され、まったく人畜無害な花や彫刻の写真家として、もっぱら喧伝された。これに抗議してか、新宿二丁目のゲイバアで、排除された写真だけを写真集から切り抜いて壁にピンで貼るというささやかな「展覧会」が行なわれたことは、日本のゲイ文化の心意気を示す挿話であったといえる。だが日本の写真ジャーナリズムは、瞬時のうちにすべてを忘却の河に沈めてしまう。それは荒木某のような不毛な演技者だけが騒がしげに往来を横切ってゆくだけの世界であって、メイプルソープが生涯にわたって見せた繊細さとは無縁の環境なのである。

本書はメイプルソープをめぐってアメリカで書かれた、決定版ともいうべき伝記である。著者はエイズに罹って余命いくばくもないこの写真家のもとを16回にわたって訪れ、1989年に彼が死亡するまでに、直接本人の口から性生活のことを含めて、あらゆることを率直に聞くことができた。1946年にニューヨークのクイーンズにある厳格なカトリックの家庭に生まれ、大学時代にROTC(陸軍士官候補生課程)に参加するほどに体制的に「真面目」だった青年が、あるとき自分の性的帰属性に疑問を抱き、ついにはSMゲイ写真の世界で第一人者となるまでの過程を、克明に記録することができた。一般的に同時代に生きた者について書くことは、大昔の偉人の足跡を調べることよりも容易なことであると考えられている、だが、メイプルソープに関しては、かならずしもそうとは限らないと、著者はいう。彼女がもっとも会いたかった人たち、すなわちメイプルソープが好んで被写体として迎えた黒人モデルの半数以上が、どうやらエイズで他界してしまっているからである。

本書は1968年のヒッピー文化から80年代までの、ゲイを中心としたニューヨークの都市の記録としても読めるし、ひとりの真面目な青年が写真家として世界的名声に輝きながらも、最後まで両親に対してカムアウトすることを躊躇していたという、微妙な内面の物語としても読める。おそらくこの書物をもって後世は、19世紀にワイルドがいたように別世紀にメイプルソープがいて、時代の醜聞というものを一手に引き受けていたという事実を、ある感銘のもとに受けとることだろう。訳文は熟(こな)れていて読みやすい。

個人的にわたしがもっとも関心を誘(そそ)られたのは、ニューヨーク・パンクロック界の女王というべきパティ・スミスが登場する部分であった。というのもある時代までの日本人にとって「サルトルとボーヴォアールのように」という表現がカップルの理想的なあり方であったとすれば、パンク以降の世代にとっては「パティ・スミスとメイプルソープのように」というのが、ある神話的な合い言葉であったためである。わたしが最初に見た彼の写真とは、パティの最初のアルバムである『馬たち』のジャケットであり、20歳で彼女と同棲を始めたメイプルソープの、初期の美しい写真のひとつだった。それは「セックス」という言葉が「ジェンダー」に取って代わられた時代において、崇高さとは何かを問いかけるような映像である。

本書でわたしは、パティと訣別したメイプルソープが、迷い抜いた末にゲイの世界に耽溺してゆくまでの複雑な経緯を知ることができた。長い歳月の後で彼がパティと再会したのは、すでにエイズに罹病した後のことであり、その場でもう一度、昔のように彼女の肖像写真を撮ろうとしてどうしてもうまくいかなかったという一節を読むと、感動に胸が詰まる思いがする。

それにしても思うのは、日本ではどうしてここまでゲイ問題を含めて広潤な伝記が書かれないかという事実である。われわれが知っている三島由紀夫や小津安二郎の伝記は、実は穴だらけではないだろうか?

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • 発売日:2007-09-00
  • ISBN-10:4166605925
  • ISBN-13:978-4166605927
内容紹介:
古典からサブカルチャーまで、今日の日本人にとってヴィヴィッドであるべき書物約155冊を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

メイプルソープ / パトリシア・モリズロー
メイプルソープ
  • 著者:パトリシア・モリズロー
  • 翻訳:田中 樹里
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(393ページ)
  • ISBN-10:4105405012
  • ISBN-13:978-4105405014
内容紹介:
完全なる瞬間を写し取る天才的感性とタブーなき同性愛美学を融合し、写真の域を超えたアート界の寵児となりながら、エイズにより早世した写真家ロバート・メイプルソープ。その苛烈な生涯を彼自身の声と綿密な取材で明かす。悪魔的なまでの成功願望、ドラッグや同性愛SMへの凄まじい耽溺、魂の恋人パティ・スミスとの交流等、美と欲望に憑かれた男のポートレイト。

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初出メディア

中央公論

中央公論 2001年11月

雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。

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