書評

『偶景』(みすず書房)

  • 2017/09/15
偶景【新装版】 / ロラン・バルト
偶景【新装版】
  • 著者:ロラン・バルト
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(184ページ)
  • 発売日:2001-06-06
  • ISBN-10:4622049945
  • ISBN-13:978-4622049944
内容紹介:
本書は4篇のテクストから成っている。母と共生した故郷バイヨンヌの風光と思い出を語った「南西部の光」、パラス座の自由な空間を称えたエッセー。「偶景」は、1968‐69年にかけてのモロッコで… もっと読む
本書は4篇のテクストから成っている。母と共生した故郷バイヨンヌの風光と思い出を語った「南西部の光」、パラス座の自由な空間を称えたエッセー。「偶景」は、1968‐69年にかけてのモロッコでの見聞を記録した断章である。モロッコは、スタンダールのイタリア、ジッドのアルジェリアと同様、バルトの欲望が漂流する狂気の場であった。そして、「パリの夜」、これは『失われた時を求めて』の同性愛者シャルリュスがさまよい歩くソドムの都市の住人にかんする日記=ロマネスクである。
著名なフランスの記号学者ロラン・バルトは、一九八〇年、惜しくも不慮の事故で亡くなった。彼の仕事は遺稿を含め、ほとんど翻訳で読むことができる。今回新たに訳された『偶景』も、そうした遺稿のひとつである。しかしこれはまた、何という作品だろう!

全体は細かな断片の寄せ集めだ。中心となるのは、一九六八年から翌年にかけて、モロッコで執筆された「偶景」と、一九七九年の「パリの夜」。どちらも未発表だったテクストは、日記のようにも読めるが、習作のようでもあって、すぐに意図がわかりにくい。著者の説明によると、これは「俳句」でもある。何かそれ以上のことを言うための材料ではなくて、その刹那のすべてを書きとめる充実。

この作品の狙いを、題名が隠しているらしい。偶景(アンシダン)とは〈ミニ・テクスト、短い書きつけ、俳句、……すべて木の葉のように落ちてくるもの〉のこと。他のテクストについてのべる(記号学の)かわりに、直接のべること、ただしただの小説になることを拒む「小説的なもの」をつづることを、バルトはめざしている。だがそれにしては、描かれている世界が異様だ。バルトはいまや老残の同性愛者で、モロッコの街頭やパリの裏町を、偶然の出会いを求めて彷徨する。その視線は男たちの肢体の上でねばついており、かなり淫靡だ。描かれていることに、嘘はあるまい。他人のこういう生理につきあうのは、正直言って愉快なものでない。

これらの遺稿は、公表するつもりで書かれたらしいが、生前活字にならなかった。ありのままをさらすのは、自分の死後にしようと計算したのかもしれない。

さて、『偶景』の文学的価値についてだが、私にはよくわからない。翻訳から判断してしまっては危険でもある。ふつうのスタイルで書かれていたら、『ヴェニスに死す』みたいな評価を受けたかもしれない。

少し気になることをのべよう。モロッコでもパリでも、登場するのは、現地や第三国人の男娼(ジゴロ)ばかりである。バルトの興味をひかない人びとや光景はすべて(不快)、(愚か)、(退屈)などと片づけられてしまう。彼は日課のように街を徘徊し、自室に戻ると、パスカルの『パンセ』を読む。この平然とした落差に、ブルジョアジーの傲慢を感じてしまう。

これはフランス中心主義の知識人の傲慢でもある。たとえば、ホメイニについて、バルトは〈びっくり仰天。……怒る気もしない。この時代錯誤的妄想には理性的説明があってしかるべきだ〉と書く。だが、イラン革命は起こった。どちらが妄想だったのか。

記号学という、いちおう客観的にみえる解読の手さばきが、その実どういう精神の舞台裏に支えられている(場合がある)かについて、この本は多くを考えさせてくれた。また花輪光氏の長文の解題「小説家バルト?」も、本文を読むうえで大いに参考になった。

【この書評が収録されている書籍】
書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003 / 橋爪 大三郎
書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003
  • 著者:橋爪 大三郎
  • 出版社:海鳥社
  • 装丁:単行本(382ページ)
  • ISBN-10:4874155421
  • ISBN-13:978-4874155424
内容紹介:
1980年代、現代思想ブームの渦中に登場以来、国内外の動向・思潮を客観的に見据えた著作と発言で論壇をリードしてきた橋爪大三郎が、20年間にわたり執筆した書評を初めて集成。明快な思考で知られる著者による、書評の最良の教科書。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

偶景【新装版】 / ロラン・バルト
偶景【新装版】
  • 著者:ロラン・バルト
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(184ページ)
  • 発売日:2001-06-06
  • ISBN-10:4622049945
  • ISBN-13:978-4622049944
内容紹介:
本書は4篇のテクストから成っている。母と共生した故郷バイヨンヌの風光と思い出を語った「南西部の光」、パラス座の自由な空間を称えたエッセー。「偶景」は、1968‐69年にかけてのモロッコで… もっと読む
本書は4篇のテクストから成っている。母と共生した故郷バイヨンヌの風光と思い出を語った「南西部の光」、パラス座の自由な空間を称えたエッセー。「偶景」は、1968‐69年にかけてのモロッコでの見聞を記録した断章である。モロッコは、スタンダールのイタリア、ジッドのアルジェリアと同様、バルトの欲望が漂流する狂気の場であった。そして、「パリの夜」、これは『失われた時を求めて』の同性愛者シャルリュスがさまよい歩くソドムの都市の住人にかんする日記=ロマネスクである。

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初出メディア

産経新聞

産経新聞 1989年5月23日

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