書評

『宵越しの銭―東京っ子ことば 秋谷勝三老人聞き書き』(河出書房新社)

  • 2017/09/21
宵越しの銭―東京っ子ことば 秋谷勝三老人聞き書き / 林 えり子
宵越しの銭―東京っ子ことば 秋谷勝三老人聞き書き
  • 著者:林 えり子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(221ページ)
  • ISBN-10:4309007074
  • ISBN-13:978-4309007076
内容紹介:
日本橋と銀座の商人として、大正〜昭和を生き抜いた生粋の江戸っ子が、軽妙自在に語り伝える東京人の生活、風俗、心情、そして文化。

あさししんぶん、ひおしがり

暮れの三十一日まで駆け回っているくせに、正月二日となると谷中天王寺の門前で自分の雑誌の立ち売りをしたくなるのは、隣にウエムラさんという象牙屋が露店を出すからだ。ちょうど国民学校で疎開した年回り。このオジサンの地口が聞きたいの。

谷中七福神巡りのおばあさんに、「この根付は紫の紐なのね」と聞かれて、「あれ、おタクもまだ紐付き?」とまぜっ返す。知り合いが来ると「『越乃寒梅』飲んだから、こいつあ春から腰の塩梅(あんばい)がいいや」なんてシャレをいう。一時からの大護摩供養に遅れてきた近所の人に「もう席ねえぞ」と声をかける。「いいの、小学校のときから立たされるのは馴れてんだから」と切り返す人も人だが、「どうせ立つもんも立たねえんだから、その辺に立ってろ」なんて追いうちをかけるので吹き出してしまう。

こんな当意即妙な言いまわしを家に帰ってこっそり書きとめている私に、林えり子さんの『宵越しの銭』(河出書房新社)は面白かった。秋谷勝三という東京っ子の、歯切れがよく、なおかつ上品な東京弁を、湯島生まれ本郷育ちの著者がていねいな取材で採集したものである。

秋谷さんは明治四十年、品川遊廓の「山幸楼」に生まれ、銀座の唐物屋や白木屋に勤めた。例の白木屋火事で、着物の裾を気にした女店員が逃げおくれたことから、ズロースを考案した方でもあるそうだ。

たとえばこの比喩の多彩さはどうだろう。「相撲の太鼓」といえば天下太平、のんきだね、ということ。「相撲の番付」は蒙御免で「ごめんこうむる」の意。「大風に衣」「芝居の関取」「月夜のカニ」はいずれもガワぼかりで中身がないこと。「文句たくさんやることポッチリ」の人をさす。「カメの煮こごり」は手も足も出ないこと。「坊ちゃんご成人」は生まれっぱなしのとっちゃん坊や、またの名を「しゃばふさぎ」。文句ぼかりでうこかないのは「写真みていな奴」……。いえてる、いえてる。覚えておいて損はないいいまわし。

下町には貧乏人が多いから、当然、財布の中身も気になるが、あからさまにはいわない。「掘抜き井戸だね」といえば金気がない。「神楽の笛」はいつもピーピー、「弱いすもう」は金が残らないたとえ。「残った残った」まで行かないから。ふーん、シャレてるじゃないの。

そういえば東京弁はとっぱらう、ひったくる、つっころぶなんて強調がアタマにつく。私も下町の小学校から山の手の中学校へ進んで「ぶんなげる」が下品といわれた。だいたい「あたしら」でゲラゲラ笑われた。「わたくしたち」といわないと仲間にいれてもらえない。あれから二十数年たって、やっぱり地で行くしかないと思う。強調といえば「ありがてえという字にしんにゅうがつく」なんかも感じが出ている。

それと混ぜっかえすときの口調のいいこと。「後家のがんばり屋根直し」「たまげたこまげた日和下駄」、さんざん品物をひっくり返したあげくいずれまた。という客には「いずれと化物、出たことない」。一方、独得の訛り、「あさしひんぶん」に「ひおしがり」は私の世代まで連綿とつづいた。片付けるを「片す」寒いを「さぶい」、ハエを「ハイ」とくる。

東京っ子は腹に一物はないが口が悪い。バックシャンで前に回ると、みたいな女性は「裏弁天」というんだって。薄くなった毛を未練がましく並べているのは「夜店のステッキ」……すいません、笑いました。「ハイトマルスベール」とか「逆ぼたる」なぞともいったそうだ。

東京っ子は深刻なことにも笑いを忘れない。私の聞き書きの体験では、東京大空襲で防空壕で亡くなった方のことを「オツな格好で死んでやがった」というのでびっくりした。たくさんの遺体を谷中墓地に埋葬するのを、「ずらり並べて土ふって、また並べてパラパラと、まるで大根つけるみたいに」と表現した方もある。そりゃ不謹慎かもしれないけど、人間なんて死ねばそんなものだ。悲惨さばかりを強調する空襲談よりむしろかなしみが深い。

口が悪いわりに浮世の義理は固かった。秋谷さんの話で、無沙汰した家に行くとき「伺えた義理じゃないんですが、今日はお面をかぶってやってきました」という挨拶は使えそうだ。さしあげもののときは「ちょっとすけてください」「じゃ、すけ番引き受けましょう」とやれば気が楽だ。ちなみに危ない人んちへ入るとき、さっときびすを返しやすいように「右足から入る」なんてのも役に立つ。

秋谷老人は「大川で尻を洗ったよう」な生き方をこのんだ。これを隅田川というと感じが出ない。東京にこの手の人種が多かったころは、汚職も地上げもなかったろうになあ。

最近の東京論は、ますます活字資料に頼った訓詁学と化している趣きがある。聞き書きという手法は、まだまだ第一次資料でないの、裏付けがどうのといわれがちだが、恐れることはない。とにかく足でかせいで書き止めることが先決だ。本書の語り手、秋谷さんも八十歳の若さで亡くなられたのだもの。林さんは本書の刊行が間に合わなかったことを悔やみに悔やんでいるが、「楽しみは先に待てといいますから」との生前の秋谷老人の言葉があたたかい。もしかしたら、待つ楽しみが寿命を伸ばしたかもしれない。林さん、そう思うしかないよ。

【この書評が収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

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宵越しの銭―東京っ子ことば 秋谷勝三老人聞き書き / 林 えり子
宵越しの銭―東京っ子ことば 秋谷勝三老人聞き書き
  • 著者:林 えり子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(221ページ)
  • ISBN-10:4309007074
  • ISBN-13:978-4309007076
内容紹介:
日本橋と銀座の商人として、大正〜昭和を生き抜いた生粋の江戸っ子が、軽妙自在に語り伝える東京人の生活、風俗、心情、そして文化。

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