解説

『ヨーロッパワインの旅』(筑摩書房)

  • 2017/09/24
ヨーロッパワインの旅 / 宇田川 悟
ヨーロッパワインの旅
  • 著者:宇田川 悟
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(290ページ)
  • 発売日:1999-02-00
  • ISBN-10:4480034552
  • ISBN-13:978-4480034557
内容紹介:
ワインの真実を知りたければ「産地」へ行こう。ブドウ畑を見て、ブドウをむさぼり、土に触れ、そこで働く人たちと談笑しよう。どんなに科学的な醸造法もつくりだせないなにかが、土地にはあるのだ―。パリ在住の著者が、フランス各地はもとよりシチリア、マデイラ島、ギリシア、そしてトルコやアルジェリアまで、3年をかけて取材した、大地と人間とワインの物語。

大地と人間から生まれるもの

ボルドーはポムロールのシャトー・プチ・ヴィラージュというワインの一九八五年ものを口にしたときのこと。それまで飲んできたどんなワインともまったくちがう、その「土っぽさ」に圧倒的な感動を受けた。ワインの香りのむこうからかすかに漂ってくるフランスの大地の匂い、ブドウの木は大地に生え、そこで実を結び、それがワインとなって、われわれの口に届くという当たり前の事実。つまり、ワインは大地のエッセンスである以上、大地がなければワインは存在しないという自明な事実を忘れ、ヴィンテージ・イヤーや格付け、あるいはブドウの木の種類などがどうのこうのという議論に熱中している自分に愕然とした。そうか、ワインとはなによりも大地だったんだ、この大前提を抜きにした議論はすべて無効だぞ。そう気づいたのが五年前のこと。

以後、ワインに関する記事を読むときには、なによりもまず、その書き手が「大地」のことをどの程度意識に入れているかをチェックするようになった。といっても、それは土壌の質がどうだこうだという醸造学的知識のことではない。わたしが「大地」という場合、それは、ワインを生み出す土地の地理と気候と歴史、そしてそこで生活する人間と風俗というフェルナン・ブローデル的な意味での「風土(クリマ)」のすべてを含んでいる。なぜなら、ワインを生む大地に「人間」がいなければワインは存在しないからだ。大地はブドウを生むばかりか人間も生む。その人間がブドウをワインに変えるのだから、大地・人間・ワインは三位一体にならざるをえない。ワインを知るということは、本質的にその大地で暮らす人間を知ることに帰する。

わたしはたまたま一本のワインをあけたときの体験から、この事実に開眼したのだが、三年前、本書を著者から贈られたとき、ここに、自分の直感を見事に証明してくれた人がいる、と、飛んでいって握手したいような気持ちになった。

ワインには、それを生んだ風土が凝縮されている。したがって、本当にそのワインのことを知りたければ、大地を踏み、人間に会ってこなければならない。著者はこう考えて、ワインの魂にふれる旅を敢行したのだが、その結論は、次の言葉に見事に要約されている。

ところで、「近代派」にしても「懐旧派」にしても、両者が共通に主張しているのはTerroir(産地)という言葉。その産物を生誕させる土地の中にこそワインの真実が内包されている、と彼らは声を大にする。品種の改良と組合わせ、灌漑の整備、肥料の開発、ブドウの畑の手入れ、醸造法と熟成法――それらが良質のワイン作りに不可欠なのは分かり切った話だが、ワイン作りの起源はすべて Terroir に帰着する。そして、Terroir とそこで働く人間の関係が一番大切なのである、と。「初めに Terroir ありき」なのである。

しかし、ワインにある程度親しめば、この事実に思い至る人は著者以外にもいるかもしれない。そして、シャトーやドメーヌを訪れて、そこで働くワイン業者の話を聞くというアイディアは思い浮かべるだろう。事実、こうしたワイン紀行は、むしろ最近の流行にさえなりつつある。

だが、本書には、こうした凡百のワイン紀行とは決定的に異なるなにかがある。それは、ワインを生む風土に対する接近の仕方が他とは本質的にちがっているという点である。

一般に、日本人の書いた海外紀行文を読むと、いつも苛立つことがある。風俗とモノを知る者は歴史と地理を知らず、歴史と地理を知る者は風俗とモノを知らないという傾向である。両方をよく理解して、そこから考察が導きだされるというケースはほとんどなく、たいていは、このどちらか、あるいは両方とも知らないというケースが大多数を占める。

本書は数少ない例外のひとつである。つまり、地理と歴史が頭にたたき込まれているうえで、現地の風俗とモノ(この場合はワイン)との出会いがあるからだ。それも、ジャーナリストとしての長年の経験からくるノウハウ(各種の統計調査と現地でのコンタクトの取り方、あるいはインタビューにおける質問の仕方)の蓄積に加えて、バックグラウンドとしての教養が核にあるから、知識としての地理・歴史が生きたものになり、風俗やモノとの遭遇が、たんなる旅行者の好奇心を超えた人間理解に至るのである。

この性格がもっともよく出ているのは、日本人にとってはワイン辺境の地であるシチリア、マデイラ島、ギリシア、ハンガリー、アルジェリア、トルコなどへの旅の部分だろう。こうした土地は、たしかにワインの産地ではあっても、ワインそのものが日本人に親しまれてはいないので、まずワイン紀行には絶対に取り上げられない場所ばかりである。しかし、ワインの歴史をすこしでもひもといたことのある人は、これらの土地のワインがその時代、時代にエポック・メーキングな働きをしてきていることを知っている。

たとえば、ポルトガル領マデイラ島のマルムジー・ワインだ。このマデイラ・ワインの銘酒については、著者が紹介しているクラレンス公爵の処刑の逸話を巡って、バルザックをはじめとするフランス文学の至るところで言及がある。それもそのはず、十九世紀の中頃までは、パリで高級ワインといえば、マデイラ・ワインかスペインのマラガ・ワイン、それにブルゴーニュと相場が決まっていて、ボルドー・ワインについては、シャトー・ラフィットを除くとほとんど知られていなかったからだ。なかでもマデイラ・ワインへの信仰は篤かった。これは、マイデラ・ワインへの理解がなければ、十九世紀のワイン状況についてはなにも語ることができないことを意味する。ところが、これまで、このマデイラ・ワインについて、日本ではまったく情報がなく、よくその実体がわからなかった。

それが、この本ではちゃんと取り上げられているばかりか、マデイラ島というのがポルトガルよりもむしろイギリスとの紐帯が固く、イギリスの流通網を介して、マデイラ・ワインがフランスに流れ込んでいった過程が明かされる。さらに、マデイラ・ワインがリスボンから一千キロ南西に位置するアフリカ沖の亜熱帯の孤島という特殊な風土の中で、高温による熟成で作りだされたものであることが示される。なるほど、マデイラ・ワインとは、こうしたところから生まれてきたものなのか。十九世紀の食に対する理解がこれで一段と深まったような気がする。

また、十九世紀のワイン状況といえば、忘れてならないのが植民地アルジェリアのワインだ。十九世紀の後半、フィロキセラやウドン粉病などの病虫害でボルドーやラングドックのワインが壊滅の危機に瀕したとき、救世主となったのがアルジェリアのワインなのである。ボルドーやラングドックのネゴシアン(仲買人)は、このアルジェリア・ワインとのブレンドでなんとか危機を乗り切った。これをきっかけにしてフランス人ワイン農民(その多くは故郷を失ったアルザス人)のアルジェリアへの移住が加速され、それがアルジェリア独立まで続いたのである。したがって、戦前までのフランス・ワインを語るときには、縁の下の力持ちとしてのアルジェリア・ワインのことを外すわけにはいかないのだ。では、フランスからの植民者が引き上げてしまったあとのアルジェリア・ワインはいまどうなっているのか?

著者の関心もまさにそこにあった。だが、著者がアルジェリアで見たものは、ワインを作る人間がいなくなれば、いくら大地があってもワインはだめになるという悲惨な現実であった。イスラム教に加えて、共産主義政権の官僚・王義で、かつてのワイン王国は見るかげもない。そして、それにともなって、食の文化も消えうせている。これは、ワインは「大地」と「人間」から生まれる化合物だという事実を逆のほうから立証する現実ではなかろうか?

ワインには、その土地と人間のすべてが凝縮されている。ワインとはかくも奥深いものなのである。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ヨーロッパワインの旅 / 宇田川 悟
ヨーロッパワインの旅
  • 著者:宇田川 悟
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(290ページ)
  • 発売日:1999-02-00
  • ISBN-10:4480034552
  • ISBN-13:978-4480034557
内容紹介:
ワインの真実を知りたければ「産地」へ行こう。ブドウ畑を見て、ブドウをむさぼり、土に触れ、そこで働く人たちと談笑しよう。どんなに科学的な醸造法もつくりだせないなにかが、土地にはあるのだ―。パリ在住の著者が、フランス各地はもとよりシチリア、マデイラ島、ギリシア、そしてトルコやアルジェリアまで、3年をかけて取材した、大地と人間とワインの物語。

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