書評

『マグヌス』(みすず書房)

  • 2017/07/29
マグヌス / シルヴィー・ジェルマン
マグヌス
  • 著者:シルヴィー・ジェルマン
  • 翻訳:辻 由美
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(221ページ)
  • 発売日:2006-11-11
  • ISBN-10:4622072556
  • ISBN-13:978-4622072553
内容紹介:
マグヌスは、ぬいぐるみのクマの名前。五歳で記憶喪失におちいった男の子は、このクマを肌身離さず持っていた。ドイツの敗戦、ナチスの父は逃亡、母も窮死。しかし、大人の都合で何度か名前を変えさせられた男の子の過去は、嘘とつくり話で塗り固められたものだった。そこから彼の長い旅がはじまる。舞台はドイツからイギリス、さらにメキシコ、アメリカへ。驚異的な記憶力をもち、数ヶ国語をあやつる彼だが、自分はいったい誰で、どこからきたのかもわからず、本当の名前を知らない。若い読者が本気で選んだ"高校生ゴンクール賞"(2005年)受賞作。
トヨザキ的評価軸:
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」

記憶を失い、名前を失った人間の喪失をめぐる物語

質の高い作品を選ぶことで知られる「高校生ゴンクール賞」の二〇〇五年受賞作品である、シルヴィー・ジェルマンの『マグヌス』は喪失をめぐる物語だ。主人公の男の子には、五歳までの記憶がない。失った記憶は母親のお話によって補填される。心優しい母、すぐれた医者である父、気高く勇敢な戦死を遂げた二人の叔父。しかし、母親が語るこの家族の叙事詩には、男の子が愛してやまないぬいぐるみの熊マグヌスはなぜか登場しない。やがてドイツ帝国は崩壊。男の子の家族は夜逃げ同然に逃亡し、改名を余儀なくされる。まだ幼い主人公はいざ知らず、読者はここに至って、すぐれた医者であったはずの父親が実は、強制収容所で多くのユダヤ人の殺害に直接手を下していた戦争犯罪人だということを知るのだ。

メキシコにおける父の頓死。母方の伯父に預けられた男の子は、またも名前をアダムと変えることになる。母親に与えられた記憶の嘘を知り、名前を失い、不安定に揺らぐアイデンティティを抱えながら成長した大学生のアダムは、父親が死んだメキシコへと赴き、五歳の時に一体何が起きたのかを卒然と思い出す。本当の記憶を得たことで失う、嘘で塗り固められたこれまでの人生。彼の地で愛する女性と出会ったアダムはマグヌスと名乗り、アメリカへ渡って、生き直そうとするのだが――。

ここまでが物語の三分の一。が、マグヌスから喪失の気配をぬぐい去ることはできない。愛を失い、良き理解者だった伯父を失い、さらに愛を失い、マグヌスはとうとう生きながら死ぬ。これ以上の記憶を作らない、つまり世界との関係を断ち切る世捨て人になってしまうのである。

すべてを失い、困難な歩みを共にする者すらそばにいない人間が、どうやったら世界と和解できるのか。この小説は、そんな答えるのが難しい謎に穏やかな物腰で向かい合う。物語を描くパート「断片」に、それを補佐する情報「注記」や、詩や小説の引用からなる「続唱」「反響」を呼応させるスタイルを用い、マグヌスのとまどいや諦めや苛立ちや恐れを包み隠さず、描く円を少しずつ小さくするよう遠回しに、しかし確実に、謎の核心へと近づいていくのだ。

〈書くということは、ささやきの奥底まで降りてゆき、その声が途絶える時点で、言葉の間隙、言葉の周辺、ときには言葉の中核から聞こえてくる息づかいに耳を傾ける術を知ることなのだ〉

――ジェルマンはこの物語をそのように書いた。そして、マグヌスという一人の人間を救った。そのことだけで十分だ。そのことだけで、存分に美しい。

【この書評が収録されている書籍】
正直書評。 / 豊崎 由美
正直書評。
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:学習研究社
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • 発売日:2008-10-00
  • ISBN-10:4054038727
  • ISBN-13:978-4054038721
内容紹介:
親を質に入れても買って読め!図書館で借りられたら読めばー?ブックオフで100円で売っていても読むべからず?!ベストセラーや名作、人気作家の話題作に、金、銀、鉄、3本の斧が振り下ろされる。

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マグヌス / シルヴィー・ジェルマン
マグヌス
  • 著者:シルヴィー・ジェルマン
  • 翻訳:辻 由美
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(221ページ)
  • 発売日:2006-11-11
  • ISBN-10:4622072556
  • ISBN-13:978-4622072553
内容紹介:
マグヌスは、ぬいぐるみのクマの名前。五歳で記憶喪失におちいった男の子は、このクマを肌身離さず持っていた。ドイツの敗戦、ナチスの父は逃亡、母も窮死。しかし、大人の都合で何度か名前を変えさせられた男の子の過去は、嘘とつくり話で塗り固められたものだった。そこから彼の長い旅がはじまる。舞台はドイツからイギリス、さらにメキシコ、アメリカへ。驚異的な記憶力をもち、数ヶ国語をあやつる彼だが、自分はいったい誰で、どこからきたのかもわからず、本当の名前を知らない。若い読者が本気で選んだ"高校生ゴンクール賞"(2005年)受賞作。

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TV Bros.

TV Bros. 2007年3月3日

多彩な連載陣のコラムが人気のポップカルチャーTV情報誌。豊﨑由美氏の書評コーナー「帝王切開金の斧」が好評連載中。

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