わたしは誰?戻すことのできない何か
どの頁(ページ)を開いても、なにかがずっと耳もとでささやいている気がする。風が、空が、木々が、星が、鳥や動物が、あるいは水がもたらす、言葉になる以前の世界のざわめきに、ずっと耳を傾けているような感覚に襲われる。しかし本書は楽曲でも詩集でもない。第二次世界大戦が終わってまもなく生まれた、リリという女性を主人公とする物語である。母親は生後十一ケ月の彼女と父親を捨て、のちに海で消息を絶った。物語は生後間もないリリが若い母親に抱かれている写真を前にした、「これは、だあれ?」という祖母の問いかけからはじまる。
誰なのかはわかっている。「わたし」とされている存在だ。同時に、現在の「わたし」とは不可解なほどかけ離れた姿をした、一個の他人でもある。「わたし」は誰なのか。生まれてくる前の、存在の起源はどこにあるのか。リリは、つかもうとすると逃げてしまうこの穴の出入り口を見つけ出そうと、新生児の感度を保って知覚の海としての日々に身を投じる。
父親ガブリエルは、リリが五歳のころ、元モデルの美しい女性ヴィヴィアンと再婚する。彼女にはそれぞれ父親の異なる娘と息子、双子の姉妹がいて、リリはとつぜん大家族の一員となる。「わたし」を定義するには、家族とはなにかを問わなければならず、リリの探求は、その後一家が立てつづけに直面する悲劇と、ひとりひとりが抱えた深い闇のなかに取り込まれていく。
冒頭の問いかけは、全員に有効なのだ。それぞれの「わたし」を体現するかのように、満杯になったり空になったり、時間をおいて変化する子ども部屋の景色のように、彼らはいまの自分を仮の姿のように見つめている。謎を解決するのではなく、謎の表情を変え、それまで見えていなかったこと、忘却のなかに隠されていたことに光を当てる一種の啓示を待つのだ。その光は、ほんの小さな日常の場面に差し込んで、見慣れた関係の網を破る。
リリの正式な名は、バルバラ・リリアンヌ・ロベルト。バルバラと呼ばれなかった理由は、戦時中、捕虜収容所に入れられていたガブリエルの過去にかかわっている。この過去が、リリの母親との波長を乱し、息子ポールの出生にかかわる秘密を明かせないまま生きてきたヴィヴィアンを引き寄せたとも言える。どんな些細なことも「渦巻きながら揺れていて、切り離すことができない」。「作用と反作用」がひしめきあい、時間の流れからはずれて、「死んでいる生」と「生きている死」が渾然(こんぜん)となっている。
作者シルヴィー・ジェルマンは、小説を書きはじめる前に、パリ第十大学で哲学者エマニュエル・レヴィナスに学び、「顔」について博士論文を書いている。顔はその人の表情やしぐさ、見ているこちらの気持ちが投影されていくうちに変容し、「わたし」もまたその変化に応じる。固定された自分など、ほんとうはどこにもいないのだ。それでいて、どこかに隠れてもいる。「どんな些細な人生にも、もう元に戻すことのできないなにかっていうのは残る」
リリが求めていた起源の「わたし」が、どこにもない時間のなかで「光り輝く虚無」となって浮かびあがる末尾の数行は、聖書の一節のように胸を打つ。