書評
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(岩波書店)
玄奘(げんじょう)三蔵は仏法を求めてシルクロードを踏破し、遙かインドにまで旅をした。現代人には壮大なロマンのように見えるが、古代では文字通り命がけの冒険であった。その困難と危険の大きさは、おそらく今日の月への旅に匹敵するであろう。じっさい玄奘以来、誰一人として同じ道を通ったことはない。それどころか、部分的なルートでも未だに踏査されていない箇所がいくつも残されている。アフガニスタン領内には、九折の坂と呼ばれた難所がある。探検家、考古学者を含めて同じ険路を歩いた人はまだいない。本書は東西にわたる史料を駆使し、その苦難の歴程を再現した。
これまでの紹介本と違って、玄奘の西域行について、文化史の立場から検討が行われた。この視点から眺めると、『大唐西域記』はもはや単なる古代の旅行記にとどまらない。その正確無比な記述は考古学の手がかりになり、また人類学の貴重な記録としても読める。
西アジア、中央アジアで遺跡の調査に携わっていただけに、フィールドワークのなかで養われた著者の鋭い勘と経験は資料の読解にも生かされている、現場の地勢と地形をじっさいに見たことがなければ、玄奘がたどった道の険峻さはおそらくこれほどまでに生き生きと描けなかったであろう。
玄奘の優れた言語能力には舌を巻くばかりだ。天山南路からインドにいたる道には、多くの異なる文化と言語がある。方言も含めると気が遠くなるような数の言葉が飛び交っていたであろう。だが、この聡明な僧侶は途中ほとんど通訳を立てず、現地の言葉で土地の人と交流していた。異なる言葉のあいだの微妙な違いについても詳細な記録を残している、著者は多言語の地域を足で歩いたからこそ、玄奘の語学力の卓抜さを実感したのであろう。
悠久な時間を超えて、遙か古代の声を聞くために、建築や絵画や彫刻などにもまなざしが向けられている。サマルカンドの壁画に対する詳細な読みは、古代の東西文化交差点の盛況を見事に甦らせた。
バーミヤン大仏の再発見と玄奘三蔵との不思議な関係は、人々の空想を掻き立てる千夜一夜の物語のようだ。
二〇〇一年三月、アフガニスタンのタリバン政府は大量の爆薬を使って、バーミヤンの大仏を破壊した。このニュースはただちに世界を駆けめぐり、全地球の人々に大きな衝撃を与えた。
意外なことに、長いあいだアフガニスタンの人々もこの巨大な彫刻が仏像であるとは知らなかった。早期にバーミヤンを訪れた人たちの証言によると、イスラム教徒たちはかつて東の大仏を「赤像」、西の大仏を「白像」と呼んでいたという。彼らは東の彫像が王、西のほうが王妃の像と解釈して新しい伝承を作ったらしい。イスラムに改宗した後も、土地の人は文化の他者を暴力的に排斥せず、むしろそれと共生する道を選んだ。
ヨーロッパ人が中央アジア文化の探検をはじめてからも、この二つの岩刻が仏像であることはまだ知られていなかった。一八八五年、イギリスの調査団は一年前に英訳された『大唐西域記』を手引きにアフガニスタンを訪れ、「バーミヤンの巨大な像」が仏像であることにようやく気付いた。もし、玄奘の証言がなかったら、謎は歴史の深い塵埃に埋もれてしまったのかもしれない。爆破された大仏の残骸を分析した結果にもとづき、玄奘が千年前に見た光景を復元するのは意表をつく試みだ。
【この書評が収録されている書籍】
これまでの紹介本と違って、玄奘の西域行について、文化史の立場から検討が行われた。この視点から眺めると、『大唐西域記』はもはや単なる古代の旅行記にとどまらない。その正確無比な記述は考古学の手がかりになり、また人類学の貴重な記録としても読める。
西アジア、中央アジアで遺跡の調査に携わっていただけに、フィールドワークのなかで養われた著者の鋭い勘と経験は資料の読解にも生かされている、現場の地勢と地形をじっさいに見たことがなければ、玄奘がたどった道の険峻さはおそらくこれほどまでに生き生きと描けなかったであろう。
玄奘の優れた言語能力には舌を巻くばかりだ。天山南路からインドにいたる道には、多くの異なる文化と言語がある。方言も含めると気が遠くなるような数の言葉が飛び交っていたであろう。だが、この聡明な僧侶は途中ほとんど通訳を立てず、現地の言葉で土地の人と交流していた。異なる言葉のあいだの微妙な違いについても詳細な記録を残している、著者は多言語の地域を足で歩いたからこそ、玄奘の語学力の卓抜さを実感したのであろう。
悠久な時間を超えて、遙か古代の声を聞くために、建築や絵画や彫刻などにもまなざしが向けられている。サマルカンドの壁画に対する詳細な読みは、古代の東西文化交差点の盛況を見事に甦らせた。
バーミヤン大仏の再発見と玄奘三蔵との不思議な関係は、人々の空想を掻き立てる千夜一夜の物語のようだ。
二〇〇一年三月、アフガニスタンのタリバン政府は大量の爆薬を使って、バーミヤンの大仏を破壊した。このニュースはただちに世界を駆けめぐり、全地球の人々に大きな衝撃を与えた。
意外なことに、長いあいだアフガニスタンの人々もこの巨大な彫刻が仏像であるとは知らなかった。早期にバーミヤンを訪れた人たちの証言によると、イスラム教徒たちはかつて東の大仏を「赤像」、西の大仏を「白像」と呼んでいたという。彼らは東の彫像が王、西のほうが王妃の像と解釈して新しい伝承を作ったらしい。イスラムに改宗した後も、土地の人は文化の他者を暴力的に排斥せず、むしろそれと共生する道を選んだ。
ヨーロッパ人が中央アジア文化の探検をはじめてからも、この二つの岩刻が仏像であることはまだ知られていなかった。一八八五年、イギリスの調査団は一年前に英訳された『大唐西域記』を手引きにアフガニスタンを訪れ、「バーミヤンの巨大な像」が仏像であることにようやく気付いた。もし、玄奘の証言がなかったら、謎は歴史の深い塵埃に埋もれてしまったのかもしれない。爆破された大仏の残骸を分析した結果にもとづき、玄奘が千年前に見た光景を復元するのは意表をつく試みだ。
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