書評

『乾隆帝の幻玉―老北京(ラオベイジン)骨董異聞』(中央公論新社)

  • 2017/07/01
乾隆帝の幻玉―老北京骨董異聞 / 劉 一達
乾隆帝の幻玉―老北京骨董異聞
  • 著者:劉 一達
  • 翻訳:多田 麻美
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(485ページ)
  • ISBN-10:4120040925
  • ISBN-13:978-4120040924
内容紹介:
清国皇帝の遺物を巡り、宦官の夢、職人の面子、玉器商の企みが十重二十重に絡み合う。玉碗の発する妙音や北京っ子の熱き息遣いも鮮やかに、民国期のオールド北京がここに甦る。
生粋の北京っ子には口達者の人が多い。おしゃべりが好きで、どこかユーモアがある。聞いているうちについついその話術にはまり、話が本当か嘘か見当が付かなくなる。そんな北京っ子の冗舌をそのまま文章にしたのがこの小説である。

舞台は中華民国が成立した後の北京。衰世凱の帝政復活はあえなく失敗し、軍閥の支配と戦乱が続く時代である。

すべては一対の玉の碗から始まった。この稀代の宝物はかつて新彊(しんきょう)の国境を守る大臣から貢納されたもので、骨董好きの乾隆帝がこよなく愛していた。西太后の時代になると、ご褒美として衰世凱に下賜された。権力欲に取り懸かれた衰世凱は籠絡手段として宦官の大総監に贈与し、やがてその大物宦官から側近の顔三(イエンサン)の手に渡る。

骨董品に詳しい顔三はこの名宝の値打ちをよく知っている。清朝が崩壊した後、こっそり宮中から持ち出した。彼には黒子(ヘイズ)という養子がいるが、玉の碗のことは明かしていない。ある日、重病中の顔三が吐血し、黒子は偶然枕の下から玉の碗を見つけた、彼は珍品の真価を知らず、養父の薬代を工面するために、二束三文の値段で骨董屋の宗(ソン)に譲った。

宗が宮中の至宝を入手したことを聞きつけ、悪徳商人の金(ジン)は何とかして手にしようと企む。金は没落した貴族の末裔で、清王朝が滅びてから、外国語を生かして骨董品の売買で一財産を築いた。彼は役人と結託して、骨董市場で威張りちらし、中小の商人たちをいじめていた。ほしいものがあれば、どんな悪辣な手段を使っても手に入れようとする。だが、この極悪非道の男の前に、思いもよらない人が立ちはだかっている。

この作品の魅力はまずその語り口にある。一口に北京語とはいえ、れっきとした方言である。本物の下町言葉は余所(よそ)の人には通じにくい。その点では東京弁と大いに違う。北京の下町言葉は口頭で使われているだけで、文章にすることはできないと思われていた。この神話に初めて挑戦したのは老舎(ラオシャー)である。だが、劉一達(リウイーター)という作家は老舎より遙かに徹底している。本来、書き言葉にならないはずの俗語を当て字を使って大胆に取り入れている。原書には多くの注がつけられているが、それでも北京以外の出身者が理解するのに一苦労するであろう。その思い切った言語冒険のおかげで、旧(ふる)い北京の風俗や人々の生活ぶりは当時の空気とともに甦ってきた。

土俗性らしさは語り口にとどまらない。物語様式も黄色い土の匂いがする。近代に入ってから、中国の作家たちは西欧小説の作法を取り入れるのに四苦八苦した。だが、この作品を読んで、『水滸伝』的な書き方も決して捨てたものではない、と思った。

そもそも物語の遠近法が欧米小説と違う。そこには主役といえる人物はいない。「玉の碗」の行方だけが一本の線となって作品全体を貫いている。京劇の舞台のように、宗(ソン)、杜(ドウー)、水三児(シウイサー)、千(チエン)じい、崔七(ツイチー)、家琦(ジアチイ)たちが代わる代わる主役となり、大立ち回りをした後、どこかへ姿を消してしまう。

彼らは権力もなければ金もない。玉の芸術品の制作や売買を生業としているか、茶館を経営したり、人力車を引いたりしている。戦乱の時代でもあくせくせず、鳥を飼ったり京劇を唱(うた)ったりして、窮屈な日常から小さな楽しみを見いだそうしている。彼らには共通する点が一つある。北京の町をこの上なく愛し、自分の名誉を守り、意地を通するためには命を差し出すのも辞さない。

人間の尊厳とは何かが、名もない人たちの生き方を通して見事に描かれている。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

乾隆帝の幻玉―老北京骨董異聞 / 劉 一達
乾隆帝の幻玉―老北京骨董異聞
  • 著者:劉 一達
  • 翻訳:多田 麻美
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(485ページ)
  • ISBN-10:4120040925
  • ISBN-13:978-4120040924
内容紹介:
清国皇帝の遺物を巡り、宦官の夢、職人の面子、玉器商の企みが十重二十重に絡み合う。玉碗の発する妙音や北京っ子の熱き息遣いも鮮やかに、民国期のオールド北京がここに甦る。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2010年2月28日

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