書き継がれる三つめの国家神話
原題はThe Secret River。「オーストラリアの歴史には密やかな(シークレット)血の河が流れている」という人類学者W・H・スタナーの言葉から、この題名と作品が生まれたという。十八世紀末、ロンドンの最貧層に生まれたウィリアム・ソーンヒルは、食べるために軽犯罪を繰り返す。その成り行きや街の情景はディケンズを彷彿(ほうふつ)させるが、「茨(いばら)の丘(Thornhill)」という名をもつ彼は、さながら『天路歴程』の「クリスチャン」のごとく、あらゆる苦難と誘惑に出会う。十三で孤児となり、十四で船頭業につき、二十一で師匠の娘と結婚、と一度は上り調子の人生に転ずるものの、再び窃盗を犯し、シドニーへの終身流刑が決まる。
開拓村に着いた一家三人は、丘の上の小屋をあてがわれ、三年が経(た)つころには豊かな食卓を囲むまでになった――と、ここまでは、オーストラリアでお馴染(なじ)みの「神話」が踏襲されている。訳者は豪州の三神話として、(1)流罪となった者は元々イギリス階級社会の犠牲者だという解釈(2)罪びとが危険な未開の地で立派な開拓者となり更生するという筋書き(3)開拓者と先住民の邂逅(かいこう)・接触――を挙げているが、求心的な国家神話として機能してきたのは、(1)と(2)。本書でいえば、ソーンヒルがささやかな成功を収める所までだ。『闇の河』は中々折り合いのつかない(3)の部分に、全体の三分の二以上を割いている。
やがて、ソーンヒルは「土地の所有欲」という魔物にとり憑(つ)かれる。土地を手に入れたかつての流刑囚が「自分の土地について語る……言葉は詩のようだ」と、あるとき感じるのだ。所有するだけでなく、そこに「ソーンヒル岬」などと自分の名を付けたい。恩赦を勝ち取った彼は「約束の地」と思いなすホークスベリーへ、及び腰の妻と五人の子どもを連れ、「ホープ(希望)号」で旅立つ。しかし彼が「新しい人生を刻むべき白紙の一ページ」と思っていた場所には、当然ながら先住民が暮らしている。
コロニアル文学における入植者の「未開地」への到着は、船から岸辺を「見下ろす」まなざしに象徴されるだろう。典型的なのは、(『闇の河』と主題が通底する)コンラッドの『闇の奥』のマーロウが初登場する「青春」だ。船から見た空と海と岸辺と先住民の姿がなにやら判然としないまま目に焼き付く。しかし『闇の河』では、妻のサルは目的地に背を向けた恰好(かっこう)で旅立っていく。たしか中世の日本では、「アト(後)」というと、時間的には「未来」の意味しかなく、未来とはまだ見えない後ろ側にある感覚だったそうだが、まさにサルにとってはっきり見えるのは、ロンドンやシドニーで既に過ごした日々であり、未知の世界に後ろ向きに突っ込んでいく心持ちだったろう。一方、ソーンヒルは船から泥の中に飛び降り、繁(しげ)みを突き破るために、頭を下げながら上陸する。こうした箇所に幾らかの象徴性を感じる。
概念の相違は、言葉の通じない先住民と開拓民の間の身ぶりにも表れる。ソーンヒルは「自分の所有地」を表すのに、決まって四角く囲った空間を描くが、土地の個人所有という考えをもたない先住民は河や丘を広く示すばかりだ。こうした文明文化の衝突が重なり、第六章の酸鼻をきわめる虐殺に繋(つな)がっていく。ラストで夜のしじまに暗闇を見つめ続ける主人公が、「クリスチャン」の辿(たど)りついた安らぎの地にいないのは間違いがない。本書は今、先住民との和解に向け、豪州の「文化的記憶」として大きな役割を担っているという。(一谷智子訳)