そして話が進むにつれ、その矛盾や対立が抜き差しならぬものとなっていくが、そのそれが窮まるのは、文字を解さぬ民衆もまたひと色ではなく、ふた色に別れるからで、すなわち、所有する田畑や家財には各々差があるものの、一応、村の中に居場所を確保して、普通に生活を営んでいる人と、たまたまの行きかがりや或いは持って生まれた性質、もっと言うと宿業によって、村から脱落した、或いは、半ば追い出され、それでもなお死なずぎりぎりのところを生きているような人たち、である。
この両者の間で露わになってくるのは、信仰と何々、ではなく、信仰そのものの問題で、物事を真面目に理詰めに突き詰めていくと、この人たち、すなわち殉教者の子であったり、妻を殺害したり、大酒飲みだったり、狂人だったりして、決定的になにかが欠落している人たちこそが、真のキリシタンであり、それ以外の人たちは、いくら戒律・掟を守り、他人に思いやりを持って正しい生活をしたところで、並のキリシタン、に過ぎず、神の国には入れない。
つまりここで明らかになるのはこれは権力者との軍事的な衝突ではあるが、同時にいろんなレベルで正気と狂気の戦い、といってアレだったら、この世とあの世の戦い、ということにとうとうなってしまうのである。そんことになっていったい誰が付いていけるというのか。しかし三万余の人が付いていって。
そして八章の定吉の独白っていうかロ説きと、それに続く、庄屋七兵衛の母親の語りは、その矛盾の極点で、定吉は、神は自分を救えぬ、と嘆き、「あんまり、パライゾ、パライゾと願うのも、欲ではなかろうか」と語った婆は、地獄上等、と言って自殺する。
となるとけっこうな領域に行ってしまって、世界が裂けてちぎれて、ゲシャゲシャになってしまう。けれどもそうなっていないのはその矛盾を一身で引き受け、自分自身をこの世の排水ロとして、すべての人をあの世に送ろうとする人がいるからで、それは誰かと尋ねたらベンベン、そう、四郎時貞その人である。
といってしかし四郎と名前が付いている以上、例え、神に選ばれた人だとしても、人間であるには違いなく、そのようなとてつもないお役は御免蒙りたいと願うのが人間としての当たり前の気持ちである。
しかし人々の魂の窮境、特に右(事務局注:上)に言ったような、この世の苦しみを身体で引き受けて苦しんでいる人を見る度に、そしてこの世とあの世の境に自分が立っていることを自覚する度に、膨れあがる自覚と諦めが合体して覚悟となっていって、そのヒヤリとする感覚が読む者に生々しく伝わってくる。逆向きの柱にひとつの屋根がかかる。
その葛藤はライブ中継され、その文章が生まれる瞬間の作者の考え、というか葛藤が、そのまま提示される。作者によって召喚された魂は作者に憑依して、いまの時代に五百年前の景色と人々の姿形が流れ出て現れるが、それだけにはしておかれない、と思うのか思わないのか、多分、思わないで自然にそうなるのだろうけれども、こんだその召喚された魂に現代に生きる作者が憑依して、五百年前の風景や人生に現代の苦患が惨み出てくる。これ乃ち憑依の往還道、憑依の鬩(せめ)ぎ合い。そして憑依の渚。海と山が混じり合い、通婚する渚のように、過去の魂と現代の魂、あの世とこの世が惨み合い、混じり合う憑依の渚なのである。
さて、海と山が混じり合う渚は自然の恵みを生むが、憑依の渚はなにを生むのであろうか。
蓮田家の人たちが桜の木を見てこの世の名残を惜しむ場面を読んで、お初徳兵衛の物語の最後の方を思い出した。愛する人と一緒に死ねるのは嬉しいけれども、穢土というにはこの世はあまりにも美しく、この世で睦み合った人たちとの名残が尽きることはない。執着、未練がどうしても断ちきれない。この矛盾が人を狂気に追いやり、無限の悲しみを生む。けれどもだけども、この狂気こそが飛躍の発条という残酷な、それもまた美しい事柄。そしてその美しさの果ての、リアルな残酷、血みどろの姿が描かれる点も徹底していて。
という、どこまでいってもたどり着けない間いと矛盾がそのまま作品の広さとなっていて、そうした広い作品をこの渚は生んだ。
しかし無限に広がる小説というものはなく、小説は嫌でもどこかで終わらさなければならない。そのどこまでもたどり着けない世界を囲うのは言葉。なにもかもが灼き尽くされた荒れ野に、美しい言葉のぼんぼりが灯って、ぼんぼりから言葉の音楽が薫り、漂い出てくる。その節・メロディーは聖歌のよう、でも文句・言葉は説教節みたいな感じ。でもどちらがどちらということがなくそれも渚として惨み合っている。
そんな異様で美しい言葉で囲われながら、どこまでいってもたどり着けない世界が現れ出ている。恐ろしいことだ。