二・二六前夜、重大な事実知る
天之御中主と書いてアメノミナカヌシと読む。『古事記』で一番はじめに出てくる神のことだ。二・二六事件が起こったのと同じ1936年に、元女官長の島津ハルを中心とする女性たちが、昭和天皇の死去と、アメノミナカヌシの「直霊」を受け継ぐ皇族の擁立を唱え、不敬罪で逮捕される事件が起こった。二つの事件に直接の関係はなかったが、奥泉光は双方を結び付け、さらに同時代のナチス・ドイツが進めた民族浄化の思想をも取り込み、壮大な歴史ミステリーに仕上げた。主人公の伯爵の娘、笹宮惟佐子(いさこ)には兄の惟秀(これひで)がいたが、実は兄は双子でもう一人姉がいた。しかし彼女は、双子を忌む古いしきたりに従い、栃木県鹿沼の紅玉院(こうぎょくいん)で清漣尼(せいれんに)という僧になった。周囲の協力もあり、惟佐子の親友、宇田川寿子が陸軍士官とともに山梨県の青木ケ原で死体となって発見された事件に紅玉院が関係していることをつかんだ惟佐子は、紅玉院を訪れて清漣尼と面会し、初めて重大な事実を知ることになる。
惟佐子と清漣尼の共通の母の姓は白雉(はくち)で、白雉家の家系は天皇家よりも古く、アメノミナカヌシの血を受け継いでいる。ところがこの純粋日本人の血は、大陸から渡来し、異人種の血が混ざり込んだ天皇家によって穢(けが)されてしまった。私たちがなすべきは、現在の天皇家に代わって純粋日本人の血を受け継ぐ本物の天皇を祀(まつ)ることだ。清漣尼は惟佐子にこう主張する。
全く同じことを兄の惟秀も唱えていた。東京の近衛聯隊(れんたい)に属した惟秀は、二・二六事件を起こした暁には皇居を占拠し、天皇から三種の神器を奪い、純粋日本人の血を受け継ぐ真の日本人に神器を譲り渡すと惟佐子に力説する。惟秀にとっては惟佐子こそが天皇に代わって祭主となるべきであった。しかし惟佐子は、姉や兄の説を信じず、ある企(たくら)みを実行する。
著者は、本書の着想を武田泰淳の小説『貴族の階段』から得たと語っている。だが二・二六事件、異端の新興宗教、女性霊能者、神器といった題材や次々に起きる殺人事件は、むしろ松本清張の小説『神々の乱心』を思わせる。著者はこの未完の長編小説から刺激を受けつつ、冒頭に触れた二つの事件を融合させたのではないか。それだけではない。二・二六事件の黒幕とされた北一輝が『国体論及び純正社会主義』で学者たちを罵倒した一文、「其(そ)の頭蓋骨(ずがいこつ)を横ざまに万世一系の一語に撃たれて悉(ことごと)く白痴となる」も反響しているように見える。天皇家に対抗して血の純粋性を主張する家系を白雉家と名付けたところに、隠れたメッセージを読みとらずにはいられない。