書評

『東京自叙伝』(集英社)

  • 2020/04/10
東京自叙伝  / 奥泉 光
東京自叙伝
  • 著者:奥泉 光
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(470ページ)
  • 発売日:2017-05-19
  • ISBN-10:4087455858
  • ISBN-13:978-4087455854
内容紹介:
明治維新から第二次世界大戦、バブル、地下鉄サリン事件、福島原発事故まで、帝都トーキョウに暗躍した謎の男の無責任一代記! 滅亡する東京を予言する一気読み必至の長編小説。(解説/原武史)


東京ゲロンチョン
パケット化する知、蝟集する私

人生に青春も老境もなく/ただ 若さと老いを同時に夢見る/食後のうたた寝のごとし(T・S・エリオット「ゲロンチョン」

自己と他者が融解し物事の記憶もあやふやになった人生を老人が断片的に回想する「ゲロンチョン」。エリオットを引いた勢いで言えば、奥泉光の『東京自叙伝』は、この詩が先駆けをなした「荒地」をも様々な点で想起させる。荒廃した虚ろな都市を描くという主題も相通じるが、あるスタイルの点で意外にも接近していると思う。両者とも十九世紀末から二十世紀初頭の"モダニズム"が生んだ文体で書かれているからだ。

この傑作長編は、幕末に始まり、明治維新、二度の大戦を経て、安保闘争、バブル経済、3・11、福島原発事故など、時事を織り込みながら語られる東京の無責任一代記。これだけ長期間の話が、「一人称多元視点」文体で語られる。多元視点といっても、語るのはたった一人の語り手で、それがなんと無数の存在に転生する。小説の自由を最大限に行使した本作ではそれぐらい驚くにあたらない。なにしろ語り手は東京の「地霊」だから、遍在視点を有していて当然なのだ!

大東亜共栄圈というコンセプトを唱えたのも太平洋戦争をしかけたのも金閣寺を焼かせたのも三億円強奪もサリン事件も秋葉原通り魔殺人も、あまつさえ力道山がプロレスに転向したのも、すべて私の「しわざ」だ。ついでに、ツチノコも私。第一章の語り手は、一八四五年(弘化二年)の大火によって寺の檀家の養子になった柿崎幸緒で、自分を「マア猫の子みたいなもんです」と言う。出だしを引く。

私の記憶と云うのは大変に古くまで遡るのですが、(中略)青山権田原三筋町から火が出て、一帯を焼いた火事がありました。これが最初の記憶だ。私は五歳くらい。(中略)のたうつ火焔の竜が町屋や武家屋敷を次々と呑み込んでいくのを眺めていたのを覚えています。(中略)親兄弟を捜したが、これがドウも見つからない。

この冒頭の視点と文体には『吾輩は猫である』の猫のそれがうっすら滲んでいる気がするが、それもそのはず、本人(本猫)である。彼はいっとき夏目宅に飼われ、この名作のモデルにもなったのだ。そう、幸緒は猫にもなった。兎にも蛙にも十姉妹にもカゲロウにも浅蜊にもなったが、基本形は鼠だという。どうやら、この「ワイワイはしゃいで居ればよい」という鼠たち(「蝟集する群れの総体」が「私」である)こそ、近代的無責任を体現するものらしい。そういえば、著者の先行作『神器』でも、人間の姿をした鼠たちが唐突に登場し、もはや「ニッポンジンは全部鼠になった」とされた。奥泉世界では、『神器』の時点で日本人はすでにして意思も責任もない鼠だったのだ。余談ながら、エリオットも「無思考な蟹のはさみになりたい」という男を描いている。

幸緒はフェイドアウトして、関東大震災で鼠から榊春彦になり、彼は士官学校、陸大へと進み、軍部で暗躍する。本作の自由な語りは、語り手の転生のみならず、複数の「私」の同時共存、あげくには「私」同士の接触もゆるす。そして東京大空襲の夜、榊は急に曽根大吾になる。曽根はあるとき「私」同士の接触を目撃した友成光弘になってしまう。原発導入に関わった友成はやがて戸部みどりに。しかし人格は一貫しているため、バブルの「ジュリアナ」で扇を振るみどりも老人口調だ。彼/彼女らは男になろうと女になろうと、人間であれ獣であれ、人を傷つけようが殺そうが、反省、顧みるということを一切しない。

奥泉光は本作で「体験を蓄積しない近代日本」の検証を行ったと言う。日本は戦争や震災やテロや原発事故があっても、真理や意味を深く追究しないまま、ただ先へ歩いてきた。集積しない体験への著者の批評は、まず本作の叙述形式に表れているだろう。

見開きに一つか二つ、「エリート官僚の面目」「押さえきれぬ殺意」「事故現場で深呼吸」などの「小見出し」が付けられている。これを見れば内容は一目瞭然?! 本作の軽妙な文体と形態は福沢諭吉の『福翁自伝』(一八九九年)のパスティーシュである。諭吉初の口語著作と言われるが、一説によれば、初稿に小見出しはなく、自伝の新聞連載が開始され、その紙面を見た福沢が原稿に書き足したものと言う。要するに新聞記事の形態を見て、インスパイアされたのではないか。印刷出版技術の発達で日本にも日刊紙が創刊されるのが、一八七〇年代だが、最初期は小見出しに当たるものはなかった。一八九一年(明治二十四年)になって「絵入新聞の標題(みだし)」という記述が出てくる(「かくれんぼ」斎藤緑雨)。新聞の小見出しというのは当時、知を提示する先端の技法だったのだろう。

そのころ、欧米はモダニズムの揺籃期である。芸術は第二次機械時代のテクノロジーと出会って新しい表現を獲得する。ジョイスが『ユリシーズ』を書けたのはダブリンに路面電車が走ったからだ。エリオットは内燃機関が「人のリズムの感覚を変えた」と言い、コマ送りの速い「荒地」は、ニュース映画の場面転換のテンポに影響されたという説もある。交通や電信技術が人の体験を小分けにして送りだし、知の「パケット化」が起きたのである。日刊紙という新メディアの小見出しという技法も、それに相当するだろう。

『東京自叙伝』の福翁スタイルは、今見ると新書の感覚に近い。前々世紀末には先端で最高度だった思考のあり方は、その後、大衆化して簡便さが優先されるようになった。分割と拡散の後には、混濁と癒着と融解が起きる。本書のこの膨大な項目は無数の語り手の「私」と同様、省察して一つの形ある知に大成することを自ら拒み、ばらけ続ける。優秀な法学生だったみどりは知的欲求を蒸発させ、ディスコの大音響と閃光のなか、群棲する「原生動物的快楽」に恍惚となる。『東京自叙伝』における近代日本の検証と批評は、叙述型(モデル)を『福翁自伝』に置いたところに始まっているだろう。

こうして明治に始まる近代日本語だが、その成立と三人称多元視点小説との間には多々の軋轢があり、それを相克するために、さまざまな工夫がなされてきた。『東京自叙伝』における、破天荒な視点のバイオレーションを伴う一人称多元視点は、明治以来、欧文化を目指して苦闘した日本近代文学への批評でもあり、ひとつの痛快な回答でもあるのではないか。しかし、すべては食後のうたた寝に見た夢と幻……。
東京自叙伝  / 奥泉 光
東京自叙伝
  • 著者:奥泉 光
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(470ページ)
  • 発売日:2017-05-19
  • ISBN-10:4087455858
  • ISBN-13:978-4087455854
内容紹介:
明治維新から第二次世界大戦、バブル、地下鉄サリン事件、福島原発事故まで、帝都トーキョウに暗躍した謎の男の無責任一代記! 滅亡する東京を予言する一気読み必至の長編小説。(解説/原武史)


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