書評

『生の肯定』(毎日新聞出版)

  • 2018/04/08
生の肯定 / 町田 康
生の肯定
  • 著者:町田 康
  • 出版社:毎日新聞出版
  • 装丁:単行本(264ページ)
  • 発売日:2017-12-20
  • ISBN:4620108030
内容紹介:
生きよう。余の長い旅が終わる。目眩く言葉とイマジネーション。傑作長編「どつぼ超然」シリーズここに完結。町田文学の新たな到達点

生活に自慢を、人生に肯定(いいね!)を

主人公は、三部作の第一編『どつぼ超然』では、「東京で飄然としていたかった」のである。飄然者となるべく温泉地に移り住むが、ふと飄然者ではなく「超然者」というセルフイメージに支配され、一人称を「僕」から「余」に代えたとたん、新しい人格が生まれでてくる。田宮のビーチで、あることから余は自殺を決意するが……。

しかし再生する。そして第二編『この世のメドレー』において、「この世の一切を超然の高みから見下ろし、善哉(よきかな)を叫ぶ超然者」として生きる余は、時間を超越しつつ、小癪な年少者「袂拾郎(たもとじゅうろう)」君に誘われて沖縄へ。そこでこの世の始まりと終わりを目にし、生死の往還を経たのち、超然ではアカン、全然アカンという悟りに至るのである。この時点から本作『生の肯定』はスタートする。

余いわく、自分は超然者たらんとするあまり、「ひとが天然自然に抱く欲望を意図して遠ざけていた。虚無的な冷笑主義に陥っていた」。「蓋し超然とは人間拒絶主義であった。それは虚無と絶望を産み、人を死の方へ向かわせる」。ならば生を肯定し、貪欲に生きようじゃないか、と。「グリーンアスパラガス、ほほほ、善哉」などと嘯くのはやめ、「くわあ。うまそうやんかいさあ」と、自分の気持ちをストレートに、ダイレクトに出す。しかもアスパラガスを塩茹でして食う。

飄然者、超然者ときて、次は自然者なるコンセプトが打ち出されたわけである。

それにしても、虚無(主義)、絶望、生の肯定ってなると、どうしても、それニーチェっぽくない? などと呟きたくなりませんか。自然に。ナチュラルに。まあ、哲学らしくまとめれば、余は受動的ニヒリズムの絶望から、能動的ニヒリズムの「生の肯定」へと、ニーチェ的転換を遂げたとも言えるだろう。

ニーチェは、なにも無いものを有ると言い張りはしない。人生やらこの世にある森羅万象には、意味も価値も目的も無い。無いものは無いと認めたうえで一生懸命やっていきましょう、ということである。これを町田流に換言すれば、たとえば、余は本作の途中で、「眼力」という技により、双眸がおのれの内側に吸いこまれ、目が見えなくなってしまうのだが、動じない。「いやさ、このように目がない状態だからこそ、それをむしろ肯定するというか、『余なんか眼力をやって目が内側に引っ込んじゃったんだよね。凄いでしょ』と誇っていくことこそが、生の肯定ではないのか」なんて、恬と構えるのである。

この「誇る」ということが、生の肯定にほかならない。誇る、自慢する、見せびらかす、ひけらかす。ネットやSNSも積極的に使うと良い。なんとなれば、生の肯定=自慢という行為は、それによる「恥」を丸ごと受け入れることだからだ。自分で自分に「いいね!」ボタンを押すことだからだ。

しかしながら、発狂なしの生の肯定はありえない、とも余は宣う。発狂もなく生を肯定するなんざ、「単なる醜悪な、おっさんの自慢」である。そこへ行くと余は生死の際をわたり、発狂も経験済みなので、こんなことをさらっと言っても、くだんのケースには当たらない。「この鍋は〈中略〉独逸(ドイツ)製で材料の質がよほどよいからだろう。五万円くらいする寸胴鍋を使っていたことも〈後略〉」。「実はこのサンローラン・パリのパジャマは私のもとを去った女のプレゼント品である」。

やがて、余は自身をとりもどし、「自然者」から「自然」そのものになっていく。たとい、だれかを殴っても、余は自然なのだから暴力沙汰ではなく自然災害である、などと調子づき、あらゆるむかつくことに自然の「鉄槌」を下そうとするのだが、鉄槌、鉄槌って、またまたそれは晩年「鉄槌の哲学」などと称されたニーチェを思わせもするではないか。舞踏的文体といい、ひょっとして、余さんはニーチェ氏の生まれ変わりなの?

本作にも旅路の道連れがいる。余の目玉の北西に住むという「狗井真一(いぬいしんいち)」で、「脳内参議院議員」として具現化する。ふたりは脳内の外れの田舎町の食堂で、怪物的町おこしプロデューサーに出会い、血と反吐とヘドロにまみれた壮絶な対決の末、余はこんどこそ「自然」のタイトルを死守するのか、それとも…?

話は突然変わるが、ドストエフスキーの『地下室の手記』は「ぼくは病んだ人間だ……意地の悪い人間だ」(江川卓訳)と始まる。実際の「ぼく」がどんな人かはさておき、これが読者に伝えたいセルフイメージなわけだ。手記の体裁をとる『どつぼ超然』も、「自分は東京で飄然としていたかった」と、かくありたいイメージがまず提示される。その後、内面の葛藤が詳らかに描きだされ、彼はバーベキューの幟から地獄絵図のごとき焼肉の情景を脳内に展開し、ある男にすれ違いざま排撃の制裁を加える……制裁といっても、男を「ばーか、ばーか、ばーか」と心中で罵倒するだけであり、要するに傍目には、温泉地の浜を散策し、観光船で島に渡って定食をとり、地元ふれあい祭りに参加するおとなしい中年男性にすぎない。ちなみにこの点もまた、『地下室の手記』と相通じるだろう。この主人公は撞球室でいばってきた軍人を長年恨んだ挙げ句、すれ違いざまにわざとぶつかり、「一歩も道を譲らない」という自分では超苛烈な復讐に出る。

精神の修羅なのだ。『生の肯定』でもそれは言えるだろう。余の目玉が口から出てきたり、脳内参議院議員なる妙な道連れが客室乗務員や店員らに話しかけたりすると、相手は「キャッ」と言ったり、「おかしなものを見るような目」をしたり、あるいは余が居ないかのように無視したり、驚いたりするが、これはなぜか?

おそらく内面の凄絶な闘いと裏腹に、余の目はずっと目の位置にあり、分身狗井は他人には見えぬまま、余はぽつねんと平凡な独り旅をつづけているのだ。これぞ、魂の遍歴。町田文学の神髄たる「外面と内面の乖離」を極限まで推し進めた三部作の掉尾を飾るにふさわしい力業である。ありふれたおのが生に与えよ、肯定(いいね!)を。
生の肯定 / 町田 康
生の肯定
  • 著者:町田 康
  • 出版社:毎日新聞出版
  • 装丁:単行本(264ページ)
  • 発売日:2017-12-20
  • ISBN:4620108030
内容紹介:
生きよう。余の長い旅が終わる。目眩く言葉とイマジネーション。傑作長編「どつぼ超然」シリーズここに完結。町田文学の新たな到達点

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群像 2018年3月

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