書評

『ユリシーズ航海記: 『ユリシーズ』を読むための本』(河出書房新社)

  • 2018/06/30
ユリシーズ航海記: 『ユリシーズ』を読むための本 / 柳瀬 尚紀
ユリシーズ航海記: 『ユリシーズ』を読むための本
  • 著者:柳瀬 尚紀
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(373ページ)
  • 発売日:2017-06-13
  • ISBN-10:4309025854
  • ISBN-13:978-4309025858
内容紹介:
天才翻訳家が遺した『ユリシーズ』に関する文章を集成。第12章の発犬伝をはじめ、音楽、競馬、試訳など、ジョイスフルな一冊。

世界で最も厄介な物語と格闘した全身翻訳家

英文学者でジョイスの翻訳で知られる柳瀬尚紀は、昨年七月亡くなった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2017年7月)。一周忌を待っていたかのように美しい一冊が世に贈られた。『ユリシーズ』に関する文章を集め、最終章「ユリシーズ13-18 試訳と構想」に訳稿が二つ。第十五章にあたる[キルケー]には(遺稿)とそえられている。編集者の注によると、死の前日の早朝まで取り組んでいたという。

柳瀬尚紀訳『ユリシーズ』は全十八章のうち、第十二章までが『ユリシーズ 1-12』として先に刊行をみた。死によって翻訳は中絶したことになる――。

いや、ことはそれほど簡単ではないだろう。英語とドイツ語の違いはあれ、私自身、かなりの翻訳をしている。だから自信をもって言えるのだが、世界の文学のなかで、とびきり翻訳が厄介な作品が二つある。一つはジョイスの『ユリシーズ』であり、もう一つはジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』である。ジョイスという作家は、翻訳家に地獄の苦しみを与えるために生まれてきたような人なのだ。

二つのうち『ユリシーズ』は大変な苦心のあげくであるが、訳せないこともない。厄介な個所には訳注でもって逃げる手もある。既訳はいくつかあるが、どっさり訳注がついている。

『フィネガンズ・ウェイク』は到底、訳せない。全編夢の記述のごとくで、そこにありとあらゆる言葉遊びが仕掛けられ、いたるところに「ジョイス語」で謎が封印してある。どうしてこれを他国語に訳せたりできようか。

柳瀬尚紀は『フィネガンズ・ウェイク』を訳している。いいとこ取りの部分訳ではなく、最初の一行から最後の一行まで、ピリオドもなくえんえんとつづく文体は、まさにそのような日本語で、何重もの封印をおびたジョイス語には、あらゆる日本語の技法を動員して訳しきった。

その人に、よりやさしい『ユリシーズ』が、訳せないはずはない。現に『ユリシーズ 1-12』がある。そこでは訳注の助けをいっさい借りず、訳文がすべての疑問に答えるしくみになっている。

『航海記』出港の一つは、先行の日本語版『ユリシーズ』(丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳・集英社)をめぐり、「不自然で奇妙な日本語」「かなりお恥ずかしい誤訳」「英語力もなければ音感もない」……。

柳瀬尚紀は誤訳をあげつらってよろこぶたぐいの人ではない。ただ先行する訳書を踏みこえていくためには、訳稿そのものにあたらざるをえないのだ。しばらくやってみて、イヤなことは早々に打ち切りとし、「ユリシーズはこんなに面白い!」に飛び乗った。そして『ユリシーズ』第十二章をめぐり、「1922年(『ユリシーズ』刊行)以来隠されていた方程式」の発見にいたる。これは「その方程式による世界初の翻訳」としるしたのは1996年5月のことだ。以降、死まで二十年の歳月があった。どうして全訳できないなどのことがあろう。

個人的な事情をまったく知らずに言うのだが、柳瀬尚紀は「ジョイとジョイス」がぎっしりつまり、どこを開いても「ジョイスフル」な航海記を終わらせるなどしたくなかったのだ。厄介きわまるジョイス語に一歩も引かず、丁々発止と応じてくれる日本語と至福の時を過ごす。あっぱれな翻訳家人生をみごとに完結して終わらせた。
ユリシーズ航海記: 『ユリシーズ』を読むための本 / 柳瀬 尚紀
ユリシーズ航海記: 『ユリシーズ』を読むための本
  • 著者:柳瀬 尚紀
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(373ページ)
  • 発売日:2017-06-13
  • ISBN-10:4309025854
  • ISBN-13:978-4309025858
内容紹介:
天才翻訳家が遺した『ユリシーズ』に関する文章を集成。第12章の発犬伝をはじめ、音楽、競馬、試訳など、ジョイスフルな一冊。

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初出メディア

サンデー毎日

サンデー毎日 2017年7月30日号

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