存在は一つの社会的事件
内村鑑三と言えば、中学や高校でも、ときに明治二十四年に起きた「不敬事件」の主人公としてその名に言及されることがある。当時第一高等中学校教諭(嘱託)だった内村だが、前年教育勅語が公表され、翌年正月その奉読式が学校で挙行された際、内村が最敬礼を怠った(拝礼を完全に拒否したわけではない)として、教員や生徒から糾弾され、社会問題化した事件である。非国民という激しい非難を浴び、結局は教諭職を解任されることになったが、キリスト教徒としての立場と、皇室に対する尊崇の立場との問題として、その後の信仰者にも大きな影響を与えた。しかし、彼の生涯を規定する表現としてよく「二つの<J>」つまり<Jesus>と<Japan>とが挙げられるように、彼は非常なる「愛国者」でもあった。本書中にも「武士道の上に接ぎ木されたる基督(キリスト)教」というような表現がしばしば引用され、あるいは内村の言葉「日本人を通うして顕(あら)はれたる基督教、それが日本的基督教である」などにも、そのことははっきりしている。そして、彼のカリスマ的な人間性は、通常「無教会主義」と呼ばれる独自のキリスト教信仰と相まって、周囲の人々や後世に巨大な影響を残したのである。著者にはすでに『内村鑑三』(構想社、一九九〇年、文春学藝ライブラリーに文庫版あり)という本があって、言わば内村の評伝を書くという作業はすでに果たした、という思いはあるのだろう。本書でも随所に表現されているように、著者自身の考える内村の本質は、その無教会主義のなかにではなく、近代化に奔走する明治日本への、根源的な批判者という所に定位されている。ただ本書では、その著者の内村観を裏付ける目的もあって、ほぼ同時代人の間で、内村に何らかの形で言及している人々の言説を丹念に洗い出して、彼らの内村観を考察することで、内村の生きた時代の社会相の一端を描き出す、という手法がとられている。
そこで扱われる人々は、正宗白鳥や小林秀雄、宮沢賢治や徳富蘇峰といった超有名人から、内村の「弟子」のなかでも、矢内原忠雄のような著名人ばかりでなく、普通は言及されることの少ない照井真臣乳(まみち)や斎藤宗次郎ら、さらには夢野久作、戦後「極右」の烙印(らくいん)とともに歴史から葬り去られた玄洋社同人の奈良原到など、意外な人物にまで著者の筆は及んでいる。
つまり、本書の特色の一つは、実にヴァライエティに富んだ登場人物の多彩さであろうか(本書末尾の「索引」は、主要人名だけで七ページに及んでいる)。そうした様々な人々の断簡零墨まで探査して、内村への言及を探し当てようとする、著者の意欲と博捜ぶりは、感嘆に値する。
一人の読者の立場でみれば、内村という人の存在は、明治・大正期の日本において、やはり一つの社会的事件であったのだ、ということを痛感させられる。著者は、そうした内村の存在を、ポストモダンさえ曖昧になった今日の日本(ばかりではなく、恐らくは世界)にとって、一つの指針になり得ると主張する。確かに内村の『余は如何(いか)にして基督信徒となりし乎(か)』や『代表的日本人』(どちらも原典は英語)、あるいは『羅馬(ロマ)書の研究』や『一日一生』などは、評者も小学生の時の担任の先生が熱心な内村派の方だった関係で永らく親しんできたが、内村が持っていた日本社会全体への、影響力の可能性に関して、心を届かせることを怠っていた、と反省させられた。しかし、現代の日本にそれを受け止める力があるだろうか。