未来の社会を上手に生き延びるには
ツイッターもフェイスブックもやったことがない。家族とごく近しい友人との間で、ラインを使う。メールは日常的。スマホはむろん持っている。電話以外に使うのは、地図情報、たまにグーグルで事項の検索。辞書代わりにしたり、古い論文を読むために、どうしても必要だからである。電子ブックは横文字の本を読むのに使う。これが八十歳の老人、つまり私のネットの利用状況である。政治にはほとんど関心がない。政治のおかげでいいことがあった。そういう記憶がない。家庭で政治の話題を持ち出すと、必ず女房と喧嘩(けんか)になる。政治がどうであろうと、関わらないに越したことはない。鉛筆で紙に名前を書いて、箱に入れたら、世の中がよくなる。それほど楽観的にものを考えていない。
本書を読んでビックリした。イギリスのEU離脱も、トランプの大統領当選も、要するにネットのせいだという。もちろんそれは大きな政治的背景があってのことである。ただその状況を上手に、つまり自分の都合のいいように、ネットを利用して増幅できる。著者はその実例を延々と挙げて行く。素人としては、説得されるしかない。
原発稼働の是非、憲法第九条の改正のように、二つの対立極があるときに、政治の出番がある。隣国が敵になる時もそう。そういう状況で世論をどう「誘導するか」。これが政治の重要な技法になることは明らかである。しかも民主主義社会だから、個々の人たちの意見が重要である。それも意見が固まってしまった人はいい。でも日本社会が典型だが、無党派というのがある。これがどう動くか、それが政治の帰結を決めてしまう。そこにネットの出番がある。
広告、宣伝に話は似ている。知らず知らずに、商品を買いたくなってしまう。そうでなくても、もはやネットの世界はコマーシャル漬けである。そのネットの安全性そのものが商売になる。画面にいきなり「あなたのネット環境は危険にさらされています」という広告が飛び出す。ウルサイなあと思いながら、いささか心配になる。こちらには、なんの知識もないからである。
フェイクニュースという言葉が飛び交う。トランプが好む言葉らしい。要するに嘘(うそ)だが、嘘にはじつにさまざまな効用がある。私が子どもの頃は、「ジョージ・ワシントンと桜の木」という逸話を教わった。子どもは正直にしなさいという教えである。この逸話そのものが嘘だと、後年教わった。
本書を読んで、なんとも面倒な時代になったなあ、と思う。私は教科書の墨塗り世代だから、メディアの嘘には慣れ切っている。でも初めからネットの世界に入り込んでしまう、いまの若者たちは、どうなるのだろうか。著者は未来の社会を危惧する。だからといって、これといった解決策など、簡単に見つかるはずはない。ややこしくなった世界を、上手に生き延びるしかない。
IoT などという言葉が出てくる。I はインターネット、o は of、T は thingsだという。要するに家電とネットをつなぐわけだが、そうなると掃除機があなたを監視しているということになりかねない。プライヴァシーなんて、俺とは関係ないわ。そう思ってきたが、世間自体がそうなってきているわけ。
現代社会なんていうけど、要するに江戸の長屋とあまり違わないんじゃないですかねえ。隠しごとなど、なにもない。でもその江戸時代は二百五十年、ともあれ平和でしたよ。