書評
『人体六〇〇万年史──科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)
発達し退化する私たちの神秘
本書は自然と文化の産物である人体の多様な移り変わりを説明するメカニズムを集大成した労作である。人体は進化、適応、文化、環境、食事、病気、習慣など様々な要因が複雑に絡まり合うことで、形成されてゆくが、スポーツでの鍛錬や生活習慣病のように短期的に獲得される特質もあれば、直立歩行や耐寒性など長い期間を要する変異もある。直立歩行を始めた人類の祖先が地球上のあらゆる場所に生息域を広げたのはとりもなおさず走る能力のお陰であった。獲物を追うにせよ、敵から逃げるにせよ、まだ見ぬ土地へ向かうにせよ、股関節や足の親指の変異、土踏まずやアキレス腱(けん)、臀(でん)部の筋肉の発達が必要不可欠だった。まさに走るために生まれてきたのが人類なのであった。狩猟採集時代のヒトの運動量はサッカー選手や長距離ランナーに匹敵していた。後には戦争がヒトの身体能力維持を要求しただろう。直立歩行はまた手先の器用さ、好奇心、美的センスを育み、自らの手で自然環境を変えてゆくことにつながり、ひいては農耕、牧畜文明を生み出すに至る。人体は何を、どう食うかによっても、変容してゆく。体の大きさ、体型、体質は食習慣によって左右されるところが大きいが、教育、訓練による身体の変化もある。自然、文化の両方の影響により、柔軟に進化し、また退化するのが人体という「畑」なのである。産業文明はヒトの暮らしを快適なものにし、寿命を延ばしてきたが、食料の過剰摂取や運動量の低下、さらには機械化、自動化によって、自らの身体を退化させてもきた。人類史の六百万年を進化史的に辿(たど)りつつ、結論として、ヒトにとって適者生存とはどういうことなのか、多くの関心を引き寄せる健康への眼差(まなざ)しを忘れずに「後ろを向きながら、前へ進め」と提言している。にわかに自分の体を慈しみたくなる大淘汰(とうた)時代の「人体の神秘」。
朝日新聞 2015年11月15日
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