書評

『新約聖書 本文の訳』(作品社)

  • 2018/09/05
新約聖書 本文の訳 /
新約聖書 本文の訳
  • 翻訳:田川 建三
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(496ページ)
  • 発売日:2018-07-24
  • ISBN:4861827086
内容紹介:
人類の貴重な文化遺産を教会のくびきから解き放ち、徹底して原文の直訳、逐語訳につとめた田川訳新約聖書、ついに刊行!

最新の成果を縦横に駆使した偉業

田川建三氏の聖書研究は、正統すぎて日本では異端視されるが、断然優れている。本書は『新約聖書 訳と註』(全七巻八冊)の本文の訳を一冊にした普及版。キリスト者なら、新共同訳と共に手元に置くべき一冊だ。

《新約聖書と呼ばれてきた書物は、本当はもちろん「聖書」ではない。…人間が書いた文章が「聖書」、…崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない》(はしがき)。ふつうの信者は腰を抜かすかもしれない。だが、よく考えるとその通り。二一世紀の聖書学とはこういうものである。そして、社会科学の考え方にも合致している。

田川氏は新約聖書の、ギリシャ語にこだわる。後世の加筆はもちろん、初期教会の信仰が膨らませた記述もそぎ落とし、ナザレのイエスの、人間としてのあるがままを見据える。イエスを「神の子」に祀(まつ)りあげるのは偶像崇拝ではないか。こう考える田川氏の聖書の本文解釈は、徹底して科学的である。

書物の順序にもこだわる。古い順にマルコ福音書、マタイ福音書と並べてある。次がルカ文書(福音書、使徒行伝)で、ヨハネ福音書と続く。あと、パウロの書簡七つ、擬似パウロ書簡六つ、公同書簡七つ、ヘブライ人へ、ヨハネの黙示録、の順番だ。新約聖書の成り立ちが、すっきりわかる構成である。

訳語もあえて、直訳を選択する。著者らは必ずしもギリシャ語が上手でなかった。たとえばマルコは、「そして」で文を繋(つな)いでいく。ヘブライ語の語法そのままである。これを流暢(りゅうちょう)に訳しすぎると、誤訳を誘発する。素朴なままがよいのだ。

田川氏はパウロに厳しい。パウロは優れているのだが、人間的弱点も多い。コリントス教会の人びとと対立が起こった。彼らは《パウロの言うこととイエスが言っていたことがはっきり食い違っている、という事実に気がついていた》。パウロは《支離滅裂な対応を続け》、《時には強い憤りを爆発させる》。ガラティア書簡では、ユダヤ民族優越意識を丸出しにして《受取人のガラティア人に対して居丈高に威張りまくっている》(四八二~四頁)。

ヨハネの黙示録には、なお厳しい分析を加える。この書物は、人びとが平和に暮らせる未来を素直に願う元の文章を、後世の「編集者S」が加筆し、終末に諸民族が残忍に虐殺される話に書き換えたもの。田川氏は加筆前のテキストを復元し、本書に併載する。聖書学の最新の成果を縦横に駆使した仕事だ。

新約聖書は、初期教会の人びとが寄ってたかって作成した文書だ。人間が勝手につくった紙幣を、ニセ札という。それなら、神の子イエスの言葉を名のる新約聖書は、ニセ聖書ではないか。そう考える田川氏は「神を信じないクリスチャン」を自認する。人間イエスに従う、実存を賭けた思索だ。聖書の読みは、かくも多様である。おかげで、天文学や進化論、理神論や啓蒙(けいもう)哲学を受け入れ、民主主義や資本主義を受け入れる近代キリスト教が育った。聖書と信仰を両立させようとする多彩な苦闘の成果だ。西欧文明の厚みがそこにある。

田川氏の仕事は傑出しているが、ほぼ孤軍奮闘であることに唖然(あぜん)とする。日本のキリスト教界はひと口で言えば、不勉強すぎないか。わが国のキリスト教は無教会派を源のひとつとし、同時代の多彩な苦闘と共に歩むはずのものだった。神の言葉であることが明らかなクルアーンと異なり、聖書には隙間(すきま)が多い。その隙間は無数の立場を可能とする。田川氏のこの仕事と対話し、自らの信仰や思想を豊かにする機会は、誰にも開かれている。
新約聖書 本文の訳 /
新約聖書 本文の訳
  • 翻訳:田川 建三
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(496ページ)
  • 発売日:2018-07-24
  • ISBN:4861827086
内容紹介:
人類の貴重な文化遺産を教会のくびきから解き放ち、徹底して原文の直訳、逐語訳につとめた田川訳新約聖書、ついに刊行!

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年8月26日

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