紆余曲折する文章のおもしろさ
人が本とつきあい、その本の著者である作家とつきあう、そのありかたはさまざまだろう。ただ、たいていの人間にとって、一冊の本はあまたある本のなかの一冊にすぎず、一人の作家は本を通して出会う大勢の作家のなかの一人にすぎない。わたしたちは、日常生活で一日に三度食事をするように、本を消費する。そして、ほとんどの食事が忘れ去られるように、消費した本もやがては記憶からこぼれ落ちていく。しかし、読者が一冊の本をただ単に読んだというだけではなく、文字どおり生きてしまうこと、そして一人の作家とともに生きてしまうこと、そのようなことは可能だろうか。本とその著者にいわば骨がらみになってしまうという事態は、ありえるのだろうか。そういう稀(まれ)なケースを描き出しているのが、アメリカの現代作家ニコルソン・ベイカーの奇書『U&I』である。
『U&I』のUとは、大作家ジョン・アップダイクの頭文字であり、つまりは「アップダイクとわたし」という意味だ。そして、この題名はまた「ユー・アンド・アイ」すなわち「あなたとわたし」とも読める。その意味で本書は、アップダイクを文学上の師と仰ぐニコルソン・ベイカーが、いかにアップダイクを読み、また作家として影響を受けてきたか、現実に生きていたアップダイクとのつきあいよりも、いかに著者としてのアップダイクと親密な(「あなたとわたし」と呼んでもいいような)つきあいを続けてきたかを、ベイカー独特の文体で綴(つづ)ったものになる。
ニコルソン・ベイカーのデビュー作として評判になった『中二階』は、昼休みを終えてオフィス・ビルに戻ってきた語り手の「私」が、エレベーターで中二階に上がるそのわずか数十秒のあいだに去来する思索を、超スローモーションでとらえた作品だった。そこではとりとめのない思索の運動がアクションに取って代わり、注釈が膨れ上がって本文を呑(の)み込みそうになるという奇景が出現していた。つまり、『中二階』は物語を要約することが不可能というか無意味で、読者はひたすらこの小説を体験する、あるいは生きることしかできなかった。
それと同じで、本書『U&I』について、簡にして要を得た書評を書くことは不可能である。作者本人が、アップダイクについての思考を秩序立てて展開するという方針を放棄して、アップダイクが書いた「言葉」あるいは「文章」とともに生きたという、その感覚だけに忠実に従って書いているのだから、書評子としては、とにかく読んでみて体験してほしい、としか言えない。
ニコルソン・ベイカーの語り口は、本書でも説明されているように、ある考えから別の考えへと移るとき、直線的に進行するのではなく、紆余(うよ)曲折したカーブを描く。さらにそこには、語りの流れを中断してしまうような、ニコルソン・ベイカーの言葉を借りれば「詰まり」がある(そして彼は、その「詰まり」という言葉から、本題を逸(そ)れて、義父の家の下水管が詰まったときの、思わず笑いだしたくなる体験について語りだす)。人が生きているというその感触は、直線ではなく、そうしたところどころに結節のある曲線なのだと思わずにはいられない。
そんな紆余曲折する文章を読むことがおもしろいのか、と問われるかもしれないが、それに対しては、自意識的な作者がすでに答えを用意している。すなわち、作者によれば、一冊の本に必要なサスペンスはただひとつ、「次になにが起こるのだろう?」ではなく、「読むのをやめたくなるときが来るのだろうか?」だという。そして、わたしにとって、『U&I』はいつまでも読んでいたい本である。本書は、ニコルソン・ベイカーがある短篇で書いた、音楽家の手の指にできているたこの描写が、アップダイクのある長篇にも見出(みいだ)せるという、逆の(おそらくは架空の)影響関係に著者が慰められるところで終わる。この唐突な終わり方も、いかにもニコルソン・ベイカーらしい。
本書には、アップダイクの作品からの引用だけでなく、さまざまな文学作品についての言及、そして日常些事(さじ)にわたるさまざまな物事についての思索があふれている。邦訳では、図版を豊富に使ったわかりやすい脚注が組み込まれていて、訳者の本書に対する思い入れがうかがえるこの工夫が読者にとってはありがたい。ニコルソン・ベイカーが『中二階』で使った手を逆利用して、この脚注を思いっきりふくらませたら……と夢想してみたくなるところだが、そんなはしたない真似(まね)はしなかったのが、訳者の慎み深さだ。
『U&I』という題名を眺めているうちに、「I」という文字をしなやかにたわませると「U」という文字になることに気がついた。これをどう言葉で表現するか。わたしには「トポロジー的に同型」といった凡庸な言葉しか出てこないが、アップダイクだったら、そしてニコルソン・ベイカーだったら、その発見をどんな文章で書いただろうか。