解説

『フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平』(白水社)

  • 2018/12/06
フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平 / スティーヴン・エリック・ブロナー
フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平
  • 著者:スティーヴン・エリック・ブロナー
  • 翻訳:小田 透
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(218ページ)
  • 発売日:2018-10-26
  • ISBN-10:4560096546
  • ISBN-13:978-4560096543
内容紹介:
「解放の思想」の原点へ 「批判理論」は、1920年代から30年代にかけて、フランクフルトの社会研究所に集まった思想家たちによって打ち立てられた。所長をつとめたホルクハイマー以下、アドル… もっと読む
「解放の思想」の原点へ

「批判理論」は、1920年代から30年代にかけて、フランクフルトの社会研究所に集まった思想家たちによって打ち立てられた。所長をつとめたホルクハイマー以下、アドルノ、フロム、マルクーゼ、ベンヤミン、ハーバーマスと、その名を挙げていけば、そこに20世紀社会科学の荘厳な群像劇が立ち現れる。
彼らの活動が「批判理論」としてではなく「フランクフルト学派」として記憶されたことが本書の大きな出発点になっている。社会をトータルに対象化し、新たな解放の思想を提示する「批判」という手法は、自家中毒をおこして(否定弁証法)、解体してしまったのではないかという問題意識である。
フランクフルト学派から批判理論へ――。これが本書の大きな柱となる。そこで浮上してくるのは、人物ではなく概念だ。とりわけ、「疎外」と「物象化」に大きな光が当てられる。
批判理論はそもそもプロレタリアートのための「解放の思想」であり、実践と結びついて意味がある。このため本書では「疎外」も「物象化」も簡潔に定義され、読者が現実に立ち向かうための武器として与えられる。閉塞感深まる日本を捉える一冊。

社会問題が革命ではなく個人の治療に変容したのはなぜか

わたしたちが持っているものは必ずしもわたしたちの欲しいものではない。わたしたちの欲しがるものだけがわたしたちの持てるものだとはかぎらない。そのことを、ユートピアはわたしたちに気づかせてくれる。(本書一〇八頁、訳文を一部変更)

本書はOxford University PressのVery Short Introductionsシリーズのなかの一冊、Stephen Eric Bronner, Critical Theory: A Very Short Introduction. 2nd Edition (2017)の全訳である。第一版は二〇一一年に出版されている。「はしがき」にあるとおり、第二版では三章の「批判理論とモダニズム」が新たに書き下ろされ、全編にわたって改訂が施されている。原書にはいくつか単純なミスプリントや誤記があったが、それらは訳者の判断で適宜修正してある。

著者のスティーヴン・エリック・ブロナーはラトガーズ大学政治学部教授であり、同大学で最も権威あるボード・オブ・ガバナーズ・プロフェッサーに任命されている。同大学の「虐殺・人権研究センター」国際関係論部門のディレクターも兼任しており、ユネスコと連携する「虐殺予防と人権」のための研究プログラム執行委員のひとりでもある。一九七五年にカリフォルニア大学バークリー校博士号(政治学)を取得している。

多作な書き手であるばかりか、華々しい受賞歴の持ち主で、編著や一般書も含めれば二十五冊以上にのぼる著作があり、二百以上の論文を執筆しているという。専門は近代政治学だが、現代政治や中近東についても発言している。Moments of Decision: Political History and the Crises of Radicalism(Routledge, 1991)で、アメリカ政治学会からマイケル・ハリントン・ブック・アワードを受賞。Reclaiming the Enlightenment: Toward a Political of Radical Engagement(Columbia University Press, 2004)は、過去五年に出版された政治理論についての最良の本に与えられるデイヴィッド・イーストン賞にノミネートされた。二〇一一年には「中近東政治学ネットワーク」により「中近東平和賞」を受賞している。近年の著作としてはThe Bigot: Why Prejudice Persists (Yale University Press, 2014)、 Modernism at the Barricade: Aesthetics, Politics, Utopia (Columbia University Press, 2012)、 Blood in the Sand: Imperial Fantasies, Right-Wing Ambitions, and the Erosion of American Democracy (The University Press of Kentucky, 2005)がある。ブロナーの著書は六カ国語以上に翻訳されており、本書『批判理論』の第一版はすでに中国語、ペルシャ語、アラビア語の翻訳があるという。

啓蒙の伝統を取り戻し、再生すること、それがブロナーのライフワークのひとつであるといっていいだろう。Reclaiming the Enlightenmentはフランクフルト学派が仕掛けたほとんど壊滅的なまでの啓蒙批判を補完し、啓蒙の伝統を肯定的に取り戻そうという試みである。現代アメリカを代表する哲学者コーネル・ウェストはこの著作に次のような讃辞を送っている。「スティーヴン・エリック・ブロナーが書いたのは、大いに求められながら、決して完成することのなかった、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の続編である。ブロナーによる政治的自由、社会的正義、コスモポリタニズムの強力な弁護は、わたしたちが手にしている啓蒙の遺産の最良の拡張である。視野狭窄的な合理主義者、「あれかこれか」のロマン主義者、自己憐憫的なニヒリストにたいするブロナーの異議申し立ては力に充ちあふれており、説得的である」。そして本書『批判理論』も、この路線にのっとって書かれている。この意味で、本書の隠れた主題の一つは、批判理論と啓蒙の系譜的繋がりである。

当初はカタカナで『クリティカル・セオリー』とすることも考えた。というのも、ブロナーはフランクフルト学派の批判理論を再構築し、脱構築しているからで、それはドイツ的なものというより、アメリカ的なものであると訳者には感じられたからだ。このような再解釈で前景化されるのは、批判理論にもともと備わっていた(しかし後の理論的精緻化によって逆に見えにくくなり、弱体化してしまった)政治的次元と倫理的目的である。過去の遺産の批判的再検討において、とくに、過去から現在へと遺産が引き継がれていく本書後半部分においては、わたしたちがよく知っている悲劇的に独り沈潜していく高踏趣味の「批判理論」ではなく、シリアスではあるがコミカルなところもあり、対話に開かれたデモクラティックな「クリティカル・セオリー」がますます表面化してくる。結論部分では、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル研究の知見を採り入れながら、現代グローバル社会における批判理論の意義を解き明かすことに議論がシフトする。しかしながら、編集者の竹園公一朗さんと協議を重ねた結果、カタカナではフランクフルト学派との関係が見失われるかもしれないという危惧が勝利を収め、最終的に『フランクフルト学派と批判理論』という邦題を採用する運びとなった。

本書の構成

本書は批判理論の源泉であるフランクフルト学派の概説書であり、第一世代に先行する西欧マルク主義者たち(ルカーチ・ジョルジュ、カール・コルシュ、アントニオ・グラムシ)、第一世代(マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ、エーリッヒ・フロム、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン)から始まり、第二世代のユルゲン・ハーバーマスを経て、第三世代に数えられるアレックス・ホネットまでたどるのだが、本書の中心となるのは、思想であって人物ではない。ここでキーとなるのは、邦訳副題に加えた「疎外」と「物象化」である。

狭義のフランクフルト学派にこだわらないブロナーの立場は、フランクフルト学派についての入門書が含めなかったり、含めるにしても軽く流してしまうようなところまで、手広くカバーすることを可能にしている。ルカーチ・ジョルジュ、アントニオ・グラムシ、カール・コルシュのようなフランクフルト学派の基本的思想態度を形作った思想家への目配りがあり(二章)、批判理論と美的モダニズムの方法論的類縁性や動機の面での近しさがクローズアップされる(三章)。ヘーゲルやマルクスなどの十九世紀ドイツ思想への言及があり、マルクスの『経済学・哲学草稿』が学派にたいして持った決定的な影響──それは一九六八年の世代に先行するものである──が強調される(四章)。ときとして批判的で悲観的すぎるフランクフルト学派の本旋律(五章)を、希望を前面に打ち出すエルンスト・ブロッホのようなユートピア的潮流によって対位法的に補い(六章)、両者をともに新たなかたちで共鳴させていく。第二次世界大戦後もアメリカ大陸にとどまったマルクーゼやフロムにたいする扱いも、全編を通して丁寧である。

ブロナーがアウシュヴィッツの問題をことさらに強調しないのは意図的な選択だろう。ブロナーの他の著作を見れば、ユダヤ人問題が彼にとって重要なテーマであることは一目瞭然である。本書でも、ブロナーは決してフランクフルト学派とナチズムの問題をなおざりにはしないし、それどころか、批判理論とは、変わりゆく歴史状況にたいして自らを変容させながら実践的理論や理論的実践を行うものであると規定し、批判理論と二十世紀史の照応関係を丁寧にフォローしていく。しかしながら、それは批判的思想の問題を単一の主題に差し戻すのではなく、より広い政治的文化的文脈に開いていくためである。

ブロナーのフランクフルト学派にたいする態度は、ときとしてかなり辛辣であり、それは「文化産業」について集中的に取り扱った七章に範例的なかたちで現れている。フランクフルト学派の大衆文化軽視や、文化的高踏主義は厳しい批判にさらされる。文化産業のラディカルな政治的可能性を強調するブロナーの態度はカルチュラル・スタディーズとの類縁関係を思わせるが、フランクフルト学派による文化産業批判は彼らのエリート主義に還元できるものではなく、そこには文化産業の物象化効果が個人に与える壊滅的な悪影響(経験の標準化、内面の貧困化)を告発しようとする倫理的動機があった、とブロナーは指摘してもいる。政治と倫理にたいする強い関心が、本書を、批判理論とフランクフルト学派の歴史的研究ではなく、その現代的な政治的倫理的意義についての書に変容している、と言ってもいいだろう。

フランクフルト学派についての研究では、第一世代(ホルクハイマーやアドルノたち)の厳しすぎるほどの否定的批判性から導かれる悲観主義にたいする解毒剤として──そして、ポスト構造主義やポストモダンの相対主義にたいする反発として──ハーバーマスによるコミュニケーション倫理や理性的対話主義を対置するという戦略が採用されることも珍しくない。批判理論の通史を書く場合、そのようなハッピーエンドなプロットが採用されるのは理解できることだ。しかし、ブロナーの歴史記述はそれとは決定的に異なっている。ブロナーはむしろ六八年的なものにたいするフランクフルト学派の二つの反応を浮き彫りにする(八章)。一方に、新たな感性を体現し、日常生活や文化そのものを変容させようとした六八年世代と呼応するマルクーゼがおり、他方には、そうした大衆行動を一九三〇年代の大衆的ファシズムと重ね合わせ、運動からはっきりと距離を取り、主体性という隔絶したモナドによる否定性という理論的実践にのみ希望をつなごうとするホルクハイマーとアドルノがいる。個人の自律性の擁護には全面的に賛同しつつも、そうした形而上学的展開が行為体(エージェンシー)の問題をぼやかし、経済的なものや政治的なものを哲学的なものや宗教的なものに包摂してしまったことを、ブロナーは問題視する。

こうして最後の二章(九章、十章)で、ブロナーは狭義の意味でのフランクフルト学派から大きく離れ、グローバル社会というわたしたちの歴史現実と批判理論の関係へとシフトしていく。本書が、ドイツ語圏の研究者による類書と大きく異なるのはここのところだろう。ブロナーは旧来の批判理論やフランクフルト学派のヨーロッパ的限界をはっきりと認識し、そのヨーロッパ特殊論に批判的立場を採っている。一方において、学派のなかで周縁的だったり敵対的だったりする思想家たちを対位法的に補うことで批判理論の潜勢力(ポテンシャル)を浮かび上がらせ(九章)、グローバルな全体性がありありと出現してきた現代における批判理論の可能性をスケッチする(十章)。

政治を文化に還元する現代社会の潮流や、西欧の非西欧にたいする傲慢な視線を批判にさらし──たとえばミシェル・フーコーのイラン革命の誤読は厳しく問い直される──批判理論を真の意味でグローバルなものに鍛え直し、今の世界に開いていこうとする。たしかに、ブロナーは現代の問題の具体的な解決策を提示しているわけではない。というより、現実の背後でうごめく利害関心や価値観、行為者の意図や動機には還元できない構造的効果やイデオロギー的帰結、構造的なものやシステムがもたらす影響を分析し分節するのが批判理論の企図であり、ブロナーはその始源(オリジナル)的精神に忠実なのだ、と言ったほうが正しいだろう。啓蒙の遺産を取り戻し、グローバルな文脈で再生し、自由主義(リベラリズム)と社会主義的を繋ぎ合わせたコスモポリタニズムを描き出そうとするブロナーの知的努力には、独自の魅力がある。

疎外と物象化

ブロナーは「イントロダクション」で疎外と物象化を次のように簡潔に定義している。疎外は「搾取と分業の心理的効果」であり、物象化は「人が道具的に扱われるありさま」である。本書全体を踏まえてもうすこし敷衍するなら、次のように説明できるだろう。両者はコインの裏表のようなものであり、物象化は疎外を悪化させ、疎外状況は物象化を正当化してしまう。疎外も物象化も、その起源はおそらく人類の誕生にさかのぼるくらい古いもの(人類史的(アンソロポロジカル)問題)だが、資本主義によって加速度的に悪化したもの(歴史的、近代的問題)である。搾取されることで生産者は自らの生産品にたいするコントロールを失い、分業によって自らの生産行為との関係をますます見失っていく(疎外)。分業はまた、質的なものを量的なものに転化する。本来なら質的であるもの(生産者という個人)が量的でしかないもの(個人の持つ生産力)に転化する(物象化)。こうして、近代資本主義社会を生きる個人は、自分にたいしても、他人にたいしても、事物にたいしても、よそよそしい関係しか切り結べなくなる(疎外)。

これだけでも壊滅的な状況であるのに、文化産業(「文化」を商品として生産する産業)がそれに拍車をかける。文化産業は個人の感じ方や考え方を標準化する。文化産業は教育ではなく商業の論理で動いており、文化ではなく産業のほうに強調が置かれている。文化産業の問題は、それが低俗でしかない娯楽的な作品を作るからではない。高尚なところや道徳的なところがない作品を作るからではない。わたしたちが自分なりに感じたり考えたりする契機を与えないようなものを作るからである。わたしたちがみな同じような感じ方や考え方をするように誘導するからである。文化産業はわたしたちから個体性や自律性を剥ぎ取り、わたしたちをいわば交換可能な単なる消費者に変えてしまう(物象化)。

しかし、これら生産と消費の両方のスペクトラムにおける非人間化の力に抗おうとする衝動が、わたしたちのうちに潜んでいる。ユートピアにたいする希求であり、より良いものや最良のものへのあこがれである。それは他者を単なる手段として扱うような態度(物象化)の克服であり、自分自身や他者や世界との違和感(疎外)の最終的な乗り越えである。

批判理論とフランクフルト学派は分析や解釈のための洗練された理論を作ったが、それは理論のための理論ではなく、近代の非人間性にたいする抵抗のためだった。この意味で、ブロナーの描き出すフランクフルト学派にとって、これら四つのモチーフ──疎外、物象化、文化産業、ユートピア──はすべて、現実をより良く理解するための分析的カテゴリーであると同時に、それを変容するための実践的ツールでもあった。

フランクフルト学派批判──歴史的特定化、改革/変容

本書の歴史記述は明確に価値判断的である。ブロナーは個人の自律性を護ろうというフランクフルト学派の中心的テーゼに完全に同意するが、その目標のために提出された理論や実践となると全面的に対決的な姿勢で臨む。批判理論を、現実の唯物的な変容実践に繋ぎ留められた理論的な試みと規定するブロナーの観点からすると、個体性の保存のために社会から退却する形而上学的方向性(アドルノの否定弁証法、ホルクハイマーの完全なる他への憧憬)も、モダニズム的方向性(ベンヤミンの星座=布置)も受け入れがたい。形而上学的方向性の洗練化である心理主義(ホネットの配慮と承認)も同様である。既存の社会状況を受け入れ、そのなかに規範的空間を創出していこうという言語論的方向性(ハーバーマスのコミュニケーション倫理)についても辛辣である。これらの方向性はすべて、唯物論的な問題を手つかずのまま放置し、それを別のレベルで解消しようという疑似解決にすぎないからだ。このブロナーの立場はどこか古典的マルクス主義を思わせる。真の意味での上部構造の変革は、土台を変革することによってのみ可能である。

ブロナーはこうした疑似解決の対極に位置するユートピア的解決である人類史的(アンソロポロジカル)切断にも肯んじない。それは唯物論的な方向性からすれば理論的には正しいものかもしれないが、端的に言って、実現不可能だからである。だからこそ、美学的創造行為による昇華(マルクーゼの新しい感性)や解釈学的な先取りの意識(ブロッホの希望という方法)にたいするブロナーの態度には、どこかアンビバレントな含みがある。だが、「あれかこれか」を迫る暴力的にユートピア的な思考モードは一貫して退けられる。ユートピアは多元的で複数的なものでなければならないからだ。

ブロナーにとって決定的な重要性を持つのは、西欧マルクス主義者のなかで最も知名度の低いカール・コルシュのようだ。理論も実践もそれが生起した歴史的文脈から引き剥がされると意味を失うというコルシュに賛同し、「歴史的特定化(ヒストリカル・スペシフィケーション)」という観点からフランクフルト学派を批判していく。批判理論は、現実に存在するリアルな人々、リアルな集団、リアルな対立や衝突といった、具体的な参照項なしには正常に稼働しないからである。

こう考えていくと、本書の議論の転換点でたびたび登場するエーリッヒ・フロムの理論的意義がはっきりしてくる。フロムには、人間主義(ヒューマニズム)と社会主義を融合させようという啓蒙の遺産に連なる試みに加えて、リアルな治癒の試みにコミットする姿勢がある。ブロナーはそれを高く評価する。だが、ここにはもっと大きな問題も潜んでいる。治療の試みは果たして社会全体の治療につながるのか。なるほど、治療はリアルな行為で、歴史的に特定されてもいる。しかし、リアルでありすぎること、具体でありすぎることに代償はないのか(批判理論は物事の「前提」を問い質すものである、というブロナーの規定を思い出しておこう)。

ここには、アドルノが『ミニマ・モラリア』で述べたアポリアがある。「間違った生活は正しく生きられない」。フロムの治療的態度は、間違った生活を正しく生きようとすることではないのか。しかし、正しく生きるために、間違った生活を何か別の新しいものに置き換えるという人類学的切断は不可能であるし、間違った生活をポジティヴにまったく拒否すること(マルクーゼ)も、間違った生活と自らの生の同一化をネガティヴに拒否すること(ホルクハイマー、アドルノ)も、生産的とはいえないだろう。それでは変容にはつながらない。

ブロナーによるフランクフルト学派の乗り越えは、まさに、この二者択一的断定を微分していくことにある。間違った生活には幅があるのではないか、正しい生き方にもまた幅があるのではないか。ブロナーは革命主義者ではなく漸近的な改革主義者である。ではなぜ「改革(リフォーム)」という一般的な語彙ではなく、「変容(トランスフォーメーション)」という言葉にこだわるのか? 世界を変えるというのは、それをあるべき状況へ、あってほしい状態へと、内側から徐々に変形(トランスフォーム)させていくことだからだ。個別問題の解決に拘泥し、その問題の元凶である構造や体系の変容=変形にまったく手をつけないのであれば、それは結局のところ、疑似的な解決でしかない。

リベラルなコスモポリタニズム──リアルなもののネゴシエーション

ブロナーは啓蒙の規範をグローバル化する現代に取り戻し、再生させようと目論む。それはアドルノの『否定弁証法』や『美の理論』のように表現しえぬものを表現しようとする孤高のモダニズム的試みではないし、ブロッホの『希望の原理』のようなユートピア的衝動の表現主義的奔流もない。マルクーゼの『解放論の試み』のようなユートピア的高揚もなければ、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」のような黙示論的希望もない。

きわめて穏健な提言かもしれない。近年の運動が最終的には成功に結びつかなかった理由をきちんと考え直そう。疎外に対処するために宗教に頼ることは疎外の再生産につながりかねない。疎外という実存的問題の完全な解決は期待できないが、物象化のほうは対処可能だ。近代の啓蒙の肯定的な遺産を最大限に利用しよう。道具的合理性はエンパワーメントに使える。権力の廃絶ではなく、権力の恣意的な行使の阻止を目指そう。社会的なものであれ、経済的なものであれ、政治的なものであれ、権力の不均衡を是正しよう。権力を合理的に行使するための政治機構を構築しよう。富の圧倒的に不均衡な配分は正されなければならない。宗教権威を抑え込み、世俗的な秩序を確立しよう。リベラルな法の支配を確立しよう。移民や難民の人権を擁護するために主権国家は依然として必要だ。アナキズム的な水平主義や自発主義ではマフィア化する国家や多国籍企業や軍産複合体には対抗できない。

ブロナーは理論と実践をめぐる議論の焦点を本質論(権力とはなにか)から運用論(権力をどう使うか)にシフトさせる。問題は残っている。ブロナーはハーバーマスの普遍的語用論を解説しながら、「しかしそうしたコミュニケーション・ルールを最初から共有しない者たちはどうするのか」と疑問を投げかけていた。ブロナーが説く経済的階級を梃子にしたグローバルな連帯も、同じ批判にさらされるかもしれない。連帯しようとしない人々をどうするのか。古き良き日にノスタルジーを抱き、後ろ向きにしか世界と向き合おうとしない人たちと、(たとえ経済的利害の面での共闘の可能性はあるはずだとしても)本当に有意義なかたちで連帯できるのだろうか。

十章におけるエルンスト・ブロッホの『この時代の遺産』への言及は、この意味で、きわめて重要である。というのも、非同時代的矛盾という考え方に依拠することで、ブロッホは、心理学的でも人類史的でもなく、歴史的で唯物論的な説明を提出する可能性を切り開いているからだ。ブロッホによれば、複数の異なった時代に端を発するものがひとつの時代のなかに共存しており、それらの衝突から矛盾が生まれてくるという。この理論にのっとれば、差別は多層的な問題であり、人類学的な古層や深層のような単一の源泉──それはニーチェが先鞭をつけ、フロイトが『文明への不満』で定式化し、アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で極北にまで突き進めた路線である──に還元されるものではなくなる。前近代的な原因もあれば、資本主義的な原因もある。重要なのは多元性であり、複数である。ここで必要になってくるのは、差別を単一的で斉一的な「文化」の問題と片づけてしまうのではなく、そのうちにある差異をクローズアップすることである。

しかし、単なる相対主義や複数主義に陥ってもいけない。現実と破砕(フラクチャー)したさまざまな文化的諸伝統の衝突であると受けとめるだけでは不充分である。わたしたち一人ひとりが、その伝統のどれかを意識的に選び取らなければならない。そのように自らを位置づけることによってのみ、別の破砕との衝突が痛切さを帯びたリアルなものになる。そうすることで、リアルな衝突のうちに互いに共通する領域を見つけ出し、そこを基点にしてグローバルにコスモポリタンに変容された啓蒙の規範に粘り強く繋げていく可能性が開けてくる。

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において、政治を美学化するファシズムにたいして、美学を政治化することでそれに対抗しなければならないと述べていたが、それを踏まえてブロナーの提言をまとめるなら、政治を文化に還元しようとする現代社会の潮流にたいして、リベラルなコスモポリタニズムは文化を政治化することで答えなければならない、ということになるだろう。

均質的で統合されているように見える文化内部の差異を照らし出し、リアルに存在しているさまざまな文化や伝統を突き合わせ、それらのネゴシエーションのなかから、最良のかたちで連帯を育むかもしれない契機を作り出していくこと。理論も実践も、リアルな状況が変わるにつれて変わらなければならない。というよりも、変わらないほうが嘘なのだ。変容を必然とすること、それこそが、わたしたちが批判理論から学ばなければならないことではないだろうか。

思想(アイデア)の闘い

わたしたちは「建設的ではない」という一言で批判を封じ込めようとする心性そのものを、批判にさらしていかなければならない。テオドール・W・アドルノは亡くなる数カ月前に行った「批判」と題されたラジオ講演で、そのような趣旨のことを述べている。それはもしかすると、世を騒がす運動に加わりたがらないアドルノの自己弁明のようなものだったのかもしれない。だが、何か良い対案を提示することを批判の条件とすることは、批判を飼い馴らすことにほかならない、というアドルノ主張は依然として正しい。批判とは「烈しさ」あってのものである。批判の強度(インテンシティ)が重要なのだ。

世界のいたるところで排外主義がはびこり、責任説明を果たそうとしないどころか厚顔無恥に嘘を重ねるような指導者たちが国家元首となり、憎悪や嘲笑の言葉が電子空間を埋めつくし、もはや見たこともない赤の他人を気にかけることなど偽善としかみなされない。そんな世の中にあっては、世界の不正義に憤り、言いようのない怒りを抱えて拳を握り締めるのは、もう特殊な感性でしかないのかもしれない。そんな空しい独りよがりな営為にいそしむより、見知った知人や友人や家族たちと静かに穏やかに幸せな生活を営もう、そう思う人のほうが多いのかもしれない。

しかし、批判理論が教えてくれるのは、そうした感じ方や考え方は歴史的産物にほかならず、疎外や物象化のイデオロギー的な効果なのだ、ということである。世界が疎外と物象化を深めるとき、そのなかで形成されるわたしたちもまた、疎外と物象化を内面化し、内面化したその感性や思考のモードを世界や他者に向かって投影し、その暴力を不可避的に反復していく。だからこそ、現代のベタにもメタにも暴力的な歴史状況に真の意味で抵抗し、対抗するためには、想像力のトレーニングが絶対に必要である。

現代の政治問題は思想戦を必要としている。トランプ大統領の誕生という道徳的混乱のなか一気に書き上げられた『NOでは足りない』(生島幸子、荒井雅子訳、岩波書店、二〇一八年)において、ナオミ・クラインは、トランプ大統領への道はさまざまなところで長いあいだにわたって準備されていたと強調している。トランプ大統領は決してここ数年の突発事態ではなく、長い歴史的傾向の顕在化にほかならない。たとえば、トランプ大統領が公的言説にもちこんだ嘲笑や侮蔑というモードは、二〇〇〇年代初頭から下ごしらえされていた。「『アプレンティス』は毎週、何百人もの視聴者に自由市場資本主義の理論の中心をなす売り文句を叩き込んだ。人間のいちばん利己的で残酷な面をむき出しにすれば、ヒーローになれる。雇用も生まれるし、経済も成長するのだ、と。いい人になるな、鬼になれ。そうすれば経済に貢献できるし、何よりも自分自身のためになるのだ、と」(五七頁)。実際の統計を見れば、現代における富の配分の不平等は誰の目にも明らかである。二〇一六年に金融機関のクレディ・スイスが行った調査によると、上位十%の所有資産が世界の富の八十九%を占め、下位五十%の資産の合計は世界の富の一%にも満たないという。

このような事実を世界に突きつければすむということではない。トランプ的なものやネオリベラリズム的なものは、「市場は常に正しく、規制は常に間違いで、民間は善であり公共は悪、公共サービスを支える税金は最悪だ」(九六頁)という態度や思考が選択肢の一つとして肯定される世界をもたらしただけではない。そればかりか、「これはひと握りのビッグな勝者と大量の敗者を生むシステムなのだから、なんとしても勝者チームに残れるようにしないとだめだぞ」、「おまえを勝者にしてやろう。そして一緒に敗者をぶっつぶそうではないか」(五八頁)という態度が常識の一部になり、それどころか、常識そのものになってしまったかのような世界である。ナオミ・クラインが力説するように、似非ポピュリスト右派の台頭を阻止することは、選挙でそうした政策を公言する政治家を当選させなければいい、ということにはとどまらない。選挙戦略を越えた、選挙期間だけにとどまらない、「思想(アイデア)をめぐる闘いに進んで参加すること」(一四五頁)がどうしても必要になってくる。

こうした現代の政治文化的文脈を踏まえると、ブロナーが十章で行っている次の提言の重要性はかりしれない。

批判理論に必要なのは、社会についての批判的政治理論(クリティカル・ポリティカル・セオリー)として再起することであり、そのコスモポリタンな意思を再び肯定することである。わたしたちは依然としてわたしたち自身やわたしたちの伝統のほうに内向きな視線を注ぎがちである。外に向かって視線を開き、世界を見つめ、わたしたちの知らない人々と連帯するための前提条件を確保しようとはしない。カントはかつて、コスモポリタニズムを、どこにいてもくつろぐ(フィール・アット・ホーム)ことのできる能力と定義した。しかしそれでは問題の一面しか捉えきれていない。今日の倫理的命法とは、我々のいるところで「他(アザー)」にくつろぎ(ホーム)を感じてもらうことである(本書一八〇頁)。

いかにしてこのようなユートピア的な倫理的命法を具体的にできるか。ブロナーはたしかにそのことを本書で具体的に示してはいない。しかし、批判の仕事、批判理論が定義する意味での批判の本当の仕事とは、具体的な個別の問題にたいして技術論的な意味で効率的な正答を与えることではない。わたしたちが常識だと思っている現実を問い質し、そこに問題を見つけること、抑圧の前提条件を明るみに出すこと、抵抗のための筋道を描き出すこと、そうした筋道を照らし出す解放の理念を分節することだ。そして願わくば、そうした道の先にある(遥か遠くでしかないとしても)多元的で複数的なユートピアの可能性の煌きを予示することである。


今回の翻訳は先人の仕事がなければまったく不可能なものだった。入門書という性質上、原書にはまったく注がなく、引用元も示されていない。最初は詳細な注を付けることも考えたが、注は読書体験を分断してしまう恐れもある。それゆえ、数カ所を除いて脚注はつけないことにした。ブロナーが文化産業のラディカルな政治的可能性の具体例として言及している事柄について興味がある読者は、インターネットで検索していただければと思う。引用については、四行以上にわたるもの以外は明記しないことにした。しかし、既訳がある場合は可能なかぎり参照している。独自に訳し直したものもあるが、キーワードの統一を除き、できるかぎり既訳をそのまま引用するかたちを採った。そのせいで地の文と引用部分のあいだに言葉遣いのうえで微細なズレが生じているが、これは、複数性や多元性を尊ぶ本書の倫理的理念に共感した訳者の戦略的な選択である。

参考、参照、引用させていただいた文献をリストアップすることで、先人の仕事に敬意を表するともに、深くお礼を申し上げたい。ルカーチ・ジョルジュ『ルカーチ著作集九巻 歴史と階級意識』(城塚登、古田光訳、白水社)、ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫)、『ヘルダーリン全集3』(手塚富雄、浅井真男訳、河出書房新社)、カール・マルクス『経済学・哲学草稿』(長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫)、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫)、『ミニマ・モラリア』(三光長治訳、法政大学出版局)、『新音楽の哲学』(龍村あや子訳、平凡社)、『プリズメン』(渡辺祐邦、三原弟平訳、ちくま学芸文庫)、『否定弁証法』(木田元ほか訳、作品社)、『美の理論』(大久保健治訳、河出書房新社)、エルンスト・ブロッホ『希望の原理』(山下肇ほか訳、白水社)、ヘルベルト・マルクーゼ『解放論の試み』(小野二郎訳、筑摩書房)、『一次元的人間』(生松敬三、 三沢謙一訳、河出書房新社)。ハーバーマスについては『増補 ハーバーマス』(中岡成文訳、ちくま学芸文庫)をずいぶん参照させてもらった。人名や固有名詞についてはシュテファン・ミュラー=ドーム『アドルノ伝』(徳永恂監訳、作品社)に依拠している部分が大きい。エーリッヒ・フロムの伝記部分(とくに診療所=神療所の地口)についてはライナー・フンク『エーリッヒ・フロム』(佐野哲郎、佐野五郎訳、紀伊國屋書店)に多くを負っている。

編集者の竹園公一朗さん、組版の鈴木さゆみさん、装幀の小林剛さんにも深く感謝したい。ゲラになってからも執念深く修正を入れ続ける訳者の執拗さのせいで、竹園さんにも鈴木さんにもずいぶん迷惑をかけてしまったが、おふたりの寛容さのおかげで、訳者としても納得のいく良い仕事ができたと思っている。とはいえ、誤訳や誤解はおそらくどこかに忍び込んでいるだろうし、それはすべて訳者の責任である。フランクフルト学派を縦横無尽に引用し、きわめて圧縮されたかたちで議論を進めるブロナーの書き方は訳者にとっても大きな挑戦であり、それを日本語に翻訳することがどこまで成功しているかについては、寛大な読者の判断を待ちたいと思う。

[書き手] 小田透(静岡県立大学特任講師)
フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平 / スティーヴン・エリック・ブロナー
フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平
  • 著者:スティーヴン・エリック・ブロナー
  • 翻訳:小田 透
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(218ページ)
  • 発売日:2018-10-26
  • ISBN-10:4560096546
  • ISBN-13:978-4560096543
内容紹介:
「解放の思想」の原点へ 「批判理論」は、1920年代から30年代にかけて、フランクフルトの社会研究所に集まった思想家たちによって打ち立てられた。所長をつとめたホルクハイマー以下、アドル… もっと読む
「解放の思想」の原点へ

「批判理論」は、1920年代から30年代にかけて、フランクフルトの社会研究所に集まった思想家たちによって打ち立てられた。所長をつとめたホルクハイマー以下、アドルノ、フロム、マルクーゼ、ベンヤミン、ハーバーマスと、その名を挙げていけば、そこに20世紀社会科学の荘厳な群像劇が立ち現れる。
彼らの活動が「批判理論」としてではなく「フランクフルト学派」として記憶されたことが本書の大きな出発点になっている。社会をトータルに対象化し、新たな解放の思想を提示する「批判」という手法は、自家中毒をおこして(否定弁証法)、解体してしまったのではないかという問題意識である。
フランクフルト学派から批判理論へ――。これが本書の大きな柱となる。そこで浮上してくるのは、人物ではなく概念だ。とりわけ、「疎外」と「物象化」に大きな光が当てられる。
批判理論はそもそもプロレタリアートのための「解放の思想」であり、実践と結びついて意味がある。このため本書では「疎外」も「物象化」も簡潔に定義され、読者が現実に立ち向かうための武器として与えられる。閉塞感深まる日本を捉える一冊。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
白水社の書評/解説/選評
ページトップへ