書評

『マリアン・アンダースン』(アルファベータブックス)

  • 2019/01/05
マリアン・アンダースン / コスティ・ヴェハーネン
マリアン・アンダースン
  • 著者:コスティ・ヴェハーネン
  • 翻訳:石坂 廬
  • 出版社:アルファベータブックス
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2018-10-02
  • ISBN-10:4865980571
  • ISBN-13:978-4865980578
内容紹介:
アメリカを代表する黒人クラシック歌手・マリア ン・アンダースンと共に過ごした伴奏者が綴る貴重な回想録。

ピアニストが温かく捉えた実像

一人の歌好きの少年の耳に、深みのあるアルトの声がラジオから響いてきた。シューベルトの『魔王』。魔王の甘やかな猫なで声と、本性を露(あら)わにした時の声を二つと数えれば、五つの違った声を使い分けなければならないこのバラードの、ドラマ性を見事に表現した歌に、少年は魂を激しく揺さぶられたのだった。少年とはかく言う私、声の主は、今では識(し)る人も少なくなった、アメリカの、黒人のコントラルト歌手マリアン・アンダーソンである。

本書は、マリアンの楽旅を、ピアノ伴奏者として長く倶(とも)にしていたフィンランド出身のピアニストの目が、温かく捉えたマリアンの実像である。当然原著は一九四一年に発行された、極めて古いもの(アメリカでは一九七〇年と七六年に再刊されており、本訳書は七六年の版に基づくという)。彼女には別に自伝もあって、これは一九五九年時事新書として翻訳されている(西崎一郎訳)が、今は古書市場で、びっくりするような高額で取引されているようだ。しかし、一般のクラシック・ファンに、彼女の名前を覚えている人はかなり少なくなっているはず。

已(すで)に述べた出自でも判(わか)るように、いわゆるニグロ・スピリチュアルの歌手として世に出たマリアンが、クラシックの歌い手として、とりわけ、ドイツ・リートのジャンルで成功するには、今では想像もつかないほどの様々な種類のハードルがあった。いや、本書でも明かされているように、マエストロ・トスカニーニに「世紀の歌唱」と絶賛されるほどの世界的名歌手の名声を得た後でさえ、演奏会場が彼女を拒否したりする、社会的なハードルは、常に彼女につきまとった。演奏会場どころか、宿泊時のホテルでさえ、ときに闘わなければならなかった。

その点で、最も感動的なのは、本書が描く、北欧から始まり、革命後のソ連、南アメリカまでも組み込まれた長い楽旅の最後に置かれた、彼女の母国であるアメリカでの体験だろう。そこでも、というよりはむしろ、そこだからこそ、と言うべきなのかもしれないが、幾つかの屈辱的なあしらいを受けた上で、ワシントンの最も由緒ある婦人団体DAR(アメリカ愛国婦人会)が、その所有になる憲法記念ホールを、マリアンのリサイタルのために使用することを公式に拒否する、という事件が持ち上がった。エレノア・ローズヴェルト大統領夫人は、DARを即座に脱会する、というおまけまでついた。そして、本書のハイライト、リンカーン記念会館における野外コンサート、という、ホワイトハウスのアイデアによる代案が生まれた。一九三九年のイースターのことである。集まった聴衆は七万五千人を超えて会場を埋めつくした。この日マリアンは、アメリカ合衆国の首都を制覇した、と言ってよいだろう。キング牧師や、公民権運動などの遙(はる)かに前の出来事である。リンカーンがイニシアティヴを取った奴隷解放運動は、共和党によって担われたと言ってよいが、このとき断固としてマリアン支援に動いたのは、民主党のローズヴェルト政権であり、会場がリンカーン記念会館だ、というのは、皮肉と言えば皮肉である。

マリアンは、日本にも演奏旅行をしており、本書にはその時の写真が二葉収められている。そのうちの一葉は客席のエレノアを撮ったもの、もう一葉は、宴会の席上のマリアンという珍らしい写真である。

一つ、気になるのは、本書には、冒頭と、訳者あとがきの前に、書物についてと、マリアンについての解説文が置かれている。当然訳者の手になると推測されるが、実際には署名はない。
マリアン・アンダースン / コスティ・ヴェハーネン
マリアン・アンダースン
  • 著者:コスティ・ヴェハーネン
  • 翻訳:石坂 廬
  • 出版社:アルファベータブックス
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2018-10-02
  • ISBN-10:4865980571
  • ISBN-13:978-4865980578
内容紹介:
アメリカを代表する黒人クラシック歌手・マリア ン・アンダースンと共に過ごした伴奏者が綴る貴重な回想録。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年12月23日

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