書評
『静寂から音楽が生まれる』(春秋社)
現在進行形の奇跡を生むもの
ハンガリー出身のピアニスト、アンドラーシュ・シフの長大なインタビューとエッセイを二部構成で収める本書は、話し言葉と書き言葉が補完しあい、深いところで共鳴するように、つまり後者を前者の自註(じちゅう)と読むこともできる、読者にとってありがたい構成になっている。もちろん、註から本文に戻るのも自由だ。聞き手のマーティン・マイアーは冒頭からきわめて答えにくい問いを投げかけている。「あなたにとって音楽とは、音楽の本質とは何ですか」。音楽にかぎらず、こうした質問は最後の締めくくりとして温存しておくものだろう。しかし、これは聞き手が相手の仕事を深く理解しているからこその問いなのだ。
「はじめに静寂があり、静寂から音楽が生まれます。そして、音響と構造からなる実にさまざまな現在進行形の奇跡が起こります。その後、ふたたび静寂が戻ってきます」
音楽は一回性の出来事である。一回ごとの奇跡に驚嘆できるのは、前後に静寂があるからなのだ。現在進行形のドラマとしての音楽は、全体の構成という面からも説かれる。シフはある友人から、バッハの≪ゴールトベルク変奏曲≫の第二五変奏を弾いて欲しいと頼まれたとき、その頼みじたいが「根本的に間違っている」と答えたという。第二部のエッセイにあるとおり、第二五変奏はこの作品において「もっとも心揺さぶられる瞬間であるだけでなく、バッハの真の偉大さがあらわれているところ」である。だからこそ、その瞬間だけを取り出すのは不可能なのだ。
積みあげと流れを無視して一瞬を切り離し、その部分をのみ消費する現代の傾向にシフはあらがう。これは演奏だけでなく、その準備に、つまり事前の研究や教育にも深くかかわってくる重要な視点だ。
たとえばシフは判読しやすい印刷譜よりも自筆のファクシミリ版を、さらに大元の原本を参照することの意義を熱く語る。バッハの奇跡のような手稿、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品一三二の自筆譜から読み取れる作曲家の内面の動きに心をふるわせること。生の筆跡が、テキストの解釈に精神的な要素を、肉声を加えるのだ。消してはならない身体の記憶がそこにはある、といってもいいだろう。
シフは一九五三年、ブダペストに生まれた。両親はともにホロコーストを生き延びたユダヤ人である。父親は医師だったから強制労働を免れたが、最初の妻と四歳の息子をアウシュヴィッツでなくした。母親の方は最初の夫を失っている。チフスに感染したため、他の罹患(りかん)者とともに生きたまま焼き殺されたという。彼女が救われたのは、連合軍がアウシュヴィッツにつながる鉄路を破壊したため、ウィーン郊外のシュトラースホーフに送られていたからだ。幸いにも、ここは絶滅収容所ではなかった。
戦後、二人はそれぞれハンガリーに戻り、恋に落ちた。シフはそのひとり息子である。彼の存在は、消された記憶と消してはならない記憶に支えられているのだ。ピアノ教師を目指していた母と、ヴァイオリンの素人奏者だった父の影響下で、少年の才能は徐々に開花していった。この出自が、第二部にならぶ反体制的な発言や人物スケッチの土台となっていること、シフの深い音楽解釈と生きる姿勢に直結していること、静寂は音楽だけでなく夥(おびただ)しい死の前後にもあり、「さまざまな現在進行形の奇跡」を生み出しうることを、私は本書に教えられた。
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