書評

『トラや』(文藝春秋)

  • 2019/01/11
トラや / 南木 佳士
トラや
  • 著者:南木 佳士
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(189ページ)
  • 発売日:2010-09-03
  • ISBN:4167545179
内容紹介:
うつ病に苦しみ、老父の介護に疲れた家主のもとへ現われた野良の子猫、トラ。子供たちの懇願でしぶしぶ家に入れてから十五年、家主が病いと折り合いを付けたのを見届けたかのごとく逝った-。共に生きのびた愛猫への想いを綴りつつ、ある家族の、ささやかだけれどかけがえのない苦闘と再生の年月を描ききった名作。

小さな命が大きな命を救う瞬間

小鳥を除いて、ペットを飼ったことがない。家を空けることが多く、十分な世話が出来ないからだと思っていたが、トラという名の猫との歳月を描いた、小説でありエッセイであり記録でもあるこの散文を読んで、あらためて自分には、動物を飼う資格などないのだと感じた。

忙しさのせいではなく、身体のぬくもりを分かち合う覚悟がなくては、体温のあるペットを飼ってはならないのではないか。

それほどまでに、この本には、猫のぬくもりがこもっている。猫の毛の肌触りが伝わってくる。猫が人以上に人に影響を与える様子が描かれている。

主人公であり作者でもある医者は、あまりに不器用で誠実である。世間ではインテリでタフだと思われている医者だが、医者がみな強靱(きょうじん)な精神と肉体の持ち主であるわけではなく、日々患者の死と向き合う仕事は、それだけで重荷となる。彼は鬱(うつ)病とパニック障害になり、自殺願望にさいなまれる。妻は外出の折、台所の包丁をすべて持ち歩く。けれどあるとき、包丁を忘れて外出する。彼は自動機械のように、包丁を手にする。

私は同じ病で自殺した人を何人か知っている。もちろん多くの人が、そこから引き返しているのだが。

彼を救ったのは猫のトラとシロ。猫たちは腹を空(す)かして、彼に食べ物をねだる。いきものの本能で、与えた餌を、カリカリと旨(うま)そうに食べる。

「ほっと肩の力が抜け、寒さの感覚の麻痺(まひ)した裸足の爪先(つまさき)に視線が落ちたら、いきなり涙があふれてきた」

小さな命が大きな命を救った瞬間に、特別のドラマはない。いつもの光景。実際そんなものだろう、危機から引き返すときは。

この本は、少々甘い。正直だがどこか情けない。病を治す医者が、病に振り回される。たびたび涙も流す。医者がこんなに弱々しくてどうするのか。凡人誰もが経験しなくてはならない親の死や老い。先生、しっかりしてよ。

などと言っても主人公は医者である前に人間。鬱にもなるし、パニック障害にもかかる。猫たちがそれを見ている。癒すつもりも救う意図も勿論(もちろん)なく、ただそこに生きて在るだけの猫。猫のおかげで、かくあるべきと言う強張(こわば)りが消えて、静かな知覚だけが残る。救う意図の無いものに人間は救われるのだ。そしてすべては忘れ去られる。

いえいえ、猫なんてもともと覚えてもいないだろう、自分の存在が人の役に立ったことなど。

「永遠の不在は、遺(のこ)された者の内に不在というかたちで残る。そして、それも遺された者の永遠の不在によって消滅する」

主人公は自分の作ったこの文章を、どこかで読んだ気がする。サンドイッチを食べながらマルクス・アウレーリウスの『自省録』を開いてみて「すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も」という一節にたどりつく。

二千年前の人間も同じことを考えていた。「かりそめ」の繰り返し「永遠の不在と消滅」の繰り返しが二千年続いたが、それでも人間は生きて存在している。このとき「死にたい」という意志も、「かりそめ」の中に溶けて消えてしまったのではないか。

こうして主人公も、ようやく猫レベルの強さを獲得し、いきものの末端に連なることが出来たのだ。

千曲川をめぐる信州の四季が美しい。トラは今、アセビやクロユリやシャクナゲの下で眠っているそうな。
トラや / 南木 佳士
トラや
  • 著者:南木 佳士
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(189ページ)
  • 発売日:2010-09-03
  • ISBN:4167545179
内容紹介:
うつ病に苦しみ、老父の介護に疲れた家主のもとへ現われた野良の子猫、トラ。子供たちの懇願でしぶしぶ家に入れてから十五年、家主が病いと折り合いを付けたのを見届けたかのごとく逝った-。共に生きのびた愛猫への想いを綴りつつ、ある家族の、ささやかだけれどかけがえのない苦闘と再生の年月を描ききった名作。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2008年1月27日

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