- 著者:種村 季弘
- 出版社:筑摩書房
- 装丁:文庫(267ページ)
- ISBN-10:4480020489
- ISBN-13:978-4480020482
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『怪しい来客簿』には、その当時のことも、それ以前のことも、つい最近の出来事も語られている。夜行獣のように夜の町を俳徊して路傍に寝たり、森のなかで出会った獣と獣のように殺気濠々たる一枚のゴザに修羅場を託してその夜限りの博徒と渡り合う日常は、色川さんにとっては何も戦後にはじまったことではなく、まして近来足を洗ったわけでもないらしい。
そしてドヤ街が小さく、管理社会が途方もなく大きくなってからも、自然児を自称する色川さんは野獣の嗅覚で都会の森のなかのどこかに飛び石のようにめぐらされた巣を転々として探し当てているらしい。そこへ行けばあの眼の持主ばかりがいる。スッスッと下腹から殺ぎ上げる眼だ。それをお互いにひらめかせて切り裂き合う。だからこの本に収められた話はどれも恐ろしくこわい。すこぶるつきの怪談である。
そうかといって浮浪児や不良少年の眼がただギラギラと凄んでいるわけではない。むしろ話はどれも軽快であり、面白可笑しく、エンターテイナーの技巧に舌を巻く末尾の『とんがれとんがりとんがる』のような章もある。帯文に藤原審爾が絶讃している『墓』という墓参小説を読んでも、同一人物が書かれていながらかつての『黒い布』の息詰るような父子葛藤は消えて、むしろ秋空のようにアッケラカンと底が抜けている。とすると、さしもしぶとい野獣も追いつめられて、世間一般の物わかりの好い中年作家に変貌してしまったのか。
勝負は土壇場まで行ってみなければ分からない。最終章は、胆石の大手術で二度に亘って閻魔堂前の森の石松のように身体中をズタズタに切り刻まれる話(『たすけておくれ』)である。ここまでくると、『黒い布』の不良少年の眼が怪しい来客という他者の方に転移して、あのスッスッと切り裂くメスのような眼に作者自身があえて身をさらした体験談がこの本の意味だったのか、と悟らされる仕掛けである。仕込みにたっぷりモトが掛っているのは一目で分かるが、仕上げの方も入念に磨き抜かれているのである。
気がついてみると、往年の不良少年もいつしか彼が全身で反抗した父親の年齢に達している。『墓』に書かれているように、父も権威の根を失って、柔構造の大衆社会にケーブルカーのように宙吊りになってしまった。誰も上から切りつけたり、禁じたり、押えつけたりはしない。そこでかつての父の座であった手術台に身を置いて、あのメスの眼をした来客を待つ。謎めいた名医が次々にメスを替えながら彼を切る、刻む。
すると不思議な回復力でバラバラになった肉片がふたたび一つにまとまってくる。第二の誕生であり、『黒い布』の父子葛藤からはじまった分裂の「和解」である。志賀直哉からの連想に無理にコジつけているのではない。これは中年に達した作家が誰しも一度は上らなければならない手術台である。
それに今の作者が選んだ手術台は、垂直の「家」ではなくて「町」である。畸人伝作者が時代を追って畸人をタテに並べるのとも違って、水平に町のそこごこに来客をバラ撒き、それを拾いあるきながら、難問のパズルのような町の迷宮に彼岸の光明に通じる思いがけない道を発見する。バラバラに引き裂かれ、一度死んで、死者としてあの怪しい来客たちと立ち交わりながら再生するのである。志賀直哉の取り組んだ大家族状況がなくなっても神話的イニシエーションの構造そのものに変りはないから、町を手術台にしたこの大手術は、私たちも一定の精神的年輪を経れば受けないわけにはいかない。この本の本当のこわさはそこにある。覚悟を迫られるのである。
巷のキッタない神々がスッスッとすり寄ってくる。そこへ自分の身体を、ハイエナの群がる死肉さながらどさりと投げ出さなくてはならない。そんなむごたらしい目に耐えられるだろうか。この本の色川さんはさり気ない調子で答えているようだ。
「ちっともこわくなんかないよ。ぼくだってやってきたんだ」
また負けた。いつでもさり気なく上がってしまう人である。だからこの人と麻雀はやりたくない。
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