解説

『書物漫遊記』(筑摩書房)

  • 2017/07/03
書物漫遊記  / 種村 季弘
書物漫遊記
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(267ページ)
  • ISBN:4480020489

猿飛レゲンデ

以前、語学教師として関西のある大学に勤めていた。そのとき、同僚に筧某氏がいた。われわれは妙にうまが合い、年の暮れには二人してこもかぶりをかつぎこみ、大騒ぎをした。筧氏は九州男児で、飲み助で、そのうえ剣道五段の腕前であった。さそわれて一度、寒稽古とやらに顔を出したが、講堂の床に正座させられたあげく、立ち上がったとたんに脳天をしたたか殴られ、ばかばかしくなって、叩き合いの方はそれきりでよしにした。

どうしてこんな話をするのかというと、種村季弘著『書物漫遊記』を読んでいて、あらためて猿飛佐助を思い出したからだ。そして真田幸村とその十勇士を思い出し、ついては筧五段を思い出した。それというのも、あの怪男児はつねつね筧十蔵の末裔だと称していたからである。もっとも、信濃の住人の末裔がどうして九州男児となったのか、この点、当人にもいささかあやふやであるらしかった。一方、種村季弘が猿飛の後裔であることについてはどうだろう。たしかに系図となると、こちらもあやしい限りである。あるいはおまえは単に当書をひもといていて、芝愛宕下の猿寺のくだりに至り、ひところ著者もその芝愛宕下に住みついていたことを思い合わせ、猿寺から猿飛を思いついただけだと言われるかもしれない。だが――しかしながら、種村氏(うじ)が猿飛の血縁であることはまちがいない。私はかねがねそう睨んできた。それが証拠に、『書物漫遊記』の著者はまた幾多の「諸国漫遊記」を書いている。飛行自在の神通力を駆使して、五色の雲にのり、上はマゾッホやパラケルススの須弥四天王界を訪れ、下は薔薇十字の竜宮仙宮に遊び、前鬼後鬼吸血鬼のみならず、詐欺師やペテン師としたしんできた。天下をあまねく巡り、道のないところに道を開いた。

では、彼は伊賀者であろうか、甲賀者であろうか。大奥を脅かす戦国忍者か、それとも泰平の世の気ままな渡り忍者であるのだろうか。忍術の流派となると七十三流もあるそうだし、それに伊賀も甲賀も、もとは一つであったという。まず一人一流、すなわち種村流というべきだろう。ことわるまでもなく、忍術の忍は字のごとく「しのぶ」と読む。精神の上に刃をあてて、たえまなくわが身を鍛え、心を忍ばせるのが忍びである。そして古来、忍びの者はいつも野にあった。名山奇山をよじ登り、幽谷に入って修行をした。この手の変わり種が天狗とよばれた。霊薬を見つけて不死身となった者もいれば、妙高山の異人に学んでガマの妖術を身につけたやつもいる。いずれにせよ、忍術の免許皆伝は自動車の免許とちがって、そう簡単にはもらえない。

忍者にはそもそも漫遊がつきものだろう。諜報活動という、その職分にのみよるわけではない。転身や生活転換の具または場としての漫遊である。漫遊がそのまま修業としての意味合いにある。忍者が一国に居ついたとしても、それは人間としてではなく、あくまで機能としてである。あるいは数学者として、もちまえの方角感や土地勘を利用し、距離や高低を測る算定術を用いて、堤を築いたり、鉱山を開発した。あるいは化学者として、解毒剤や夜でも眠くならない興奮剤をねり出した。そして薬や香具を売り歩くという名目のもとに、諜報の任務に従ったが、売りさばくのに熱心なあまり、ほんものの香具師となった者もいた。とすれば種村流が、一方では錬金術にくわしく、他方で香具師の世界におなじみをもつのも当然ではないか。

そうなのである、種村白雲斎は手のペンを二本の足として、倦むことなく諸国の間道を歩いてきた。白昼公然と国境を踏みこえ、昨日は西に、今日は東にいた。この神出鬼没の達人に著しいのは、気合や遊芸や教門といった忍者八門のうち、なかんずく体術である。鋭敏で軽快な身のこなしと跳躍力だ。忍者は跳ばなくてはならない。まかりまちがうと、首の骨を折りかねないのだ。では彼はいかにしてこの足を鍛えたのであろう。忍法が応用変化の術だとしても、印を結び、呪文をとなえるだけで、直ちに神通力がつくわけはない。この人は忍者の作法に忠実に、汗の苦労を語らない。むろん、語るまでもないからである。思うに、忍者心得にあるとおり、麻の実をまき、日ごとの生育につれてこれを跳びこし、足腰を鍛えたにちがいない。

猿飛で思い出したが、花田清輝は「サルトビ・レゲンデ」と題したエッセイの中で真田幸村をあれこれと考察し、ひいては猿飛に「小間物を背負いながら全国を回った行商人」を見た。たしかに種村流の神通力の幾分かが、その「商品」の魔術性にあることも事実であろう。もとより博捜の才はいうまでもない。あの途方もない商品を、どこからどうやって仕入れてくるものか。むやみやたらと地面を掘り返してではなかろう。種村流奥義書は伝えているはずである。占い杖をたずさえて水脈を探れ、と。探って手ごたえたしかな個所を掘る。そこから水があふれた。

私は『書物漫遊記』を、くの一にかかわる忍法こそ欠くにせよ、種村流極意の手引きとして、ことのほかたのしく読んだ。元来、「一冊の本」と題して『週刊時代』に連載されたというが、一冊の本がみるまに十冊、二十冊とふくれ上がっても格別の不思議はないだろう。その自在さは、このたびの漫遊の幸せを語っている。この漫遊者には、全裸のモデル嬢や、芸能ゴシップや、ポルノ小説や、「収入倍増確実の副業特集」が同行したらしい。羨ましい限りである。彼はつまり、「野」にあったということだ。うってつけの場であろう。

いま一つ、極意披露のたのしみがある。漫遊は「書かれなかった本」というユートピアまでへめぐるが、いろいろと変化するその場の状況に応じて、小道具が使いわけられている点である。着想の手裏剣が打ちこまれ、連想の仕込み杖がひらめき、回想の手かぎ足かぎがとんだりする。たとえば、先にふれた猿寺は、内田百閒をめぐって述べられるのだが、百閒の小品「件(くだん)」の牛が種村少年の見た九段の招魂社における見世物小屋に導き、坂の上にそびえる「夜目にも黒々と巨きい大鳥居」につながれる。と見るまに幕は変って吉行淳之介の『祭礼の日』に至り、「真黒な布を頭からすっぽり被った老写真師」が顔を出す。秘巻の説く虚実転換の法とはこれだろう。右から引くとみせて左から投げをみせ、その実、右から入り込んで足をすくう。虚とみせて実、実とみせて虚だ。虚実とみせて実、また虚実にして実である。巧みな虚実の転換をくぐり抜け、さて、頭を叩いて考えてみよう。はたして種村流の実とは何であるか。それはやはり、小暗い鳥居の奥から「おおッ、おおッ」と呼ばわる不気味な声を、いまなお忘れない少年か。それとも老写真師のフィルムのように、「吉凶いずれともつかない予言の薄気味悪さを漂わせつつ」、何も写してはいないのであろうか。あるいはまた、虚実合わせて漫遊のそもそもが、あけてもあけても箱が出てくる中国のマジック・ボックスであるのだろうか。一番最後の箱をあけると、どこかでパタンと音がして、「自分が目に見えない大きな箱の中に入ってしまったような」気がするのだ。しかしながら、見上げれば、すかし絵さながら、ぴたりと天井にはりついた男の姿が見えるのである。
書物漫遊記  / 種村 季弘
書物漫遊記
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(267ページ)
  • ISBN:4480020489

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