書評
『旅をする裸の眼』(講談社)
八一年、大学の卒業を待たずにインドに渡り、翌年ドイツのハンブルクに着いた時、多和田葉子は透き通るほどすり減った運動靴を履いていたという。その後もドイツに住み、ドイツ語と日本語の双方で小説を書くこの作家が描き続けている異邦人もしくはアウトサイダーというモチーフは、実はそのよるべない足もとから生まれたのではないか。社会主義国ベトナムで生まれ育った少女〈わたし〉の流浪の軌跡を描いたこの最新刊を読んで、ふとそう思ったのである。
ドイツが東西に分裂していた八八年、〈アメリカ帝国主義の犠牲者のナマの声を〉東側の同志青年らに聞かせるため、生まれて初めてベトナムを離れ、独りベルリンに到着した夜、西ドイツのボーフムから来た男ヨルクによって連れ去られてしまう〈わたし〉。しかし、彼女は警察に頼らない。大使館に駆け込むこともしない。ヨルクの家から逃げ出そうともしない。やがてモスクワ経由で故郷に帰ろうと夜行列車に乗り込むものの、着いた先はその逆のパリ。しばらくは街娼マリーの世話になるものの、夜行列車の中で知り合った同国人女性の愛雲と再会を果たし、誘われるまま彼女がフランス人の夫と暮らしている家に転がりこむ。パスポートも失った〈わたし〉は、こうしてどこにも属さない何者でもない存在として、パリで大勢の人物との出会いと別れを経験していくのだが――。
そうした流浪のさなか、〈わたし〉の心のよりどころになってくれるのが、カトリーヌ・ドヌーヴが出演した映画なのだ。『昼顔』『インドシナ』といった一三本の映画を幾度も幾度も繰り返し観ることによって、言葉も政治体制も思想も異なる場所に放り込まれた少女が、〈次々と今がやってきて、それがますます残酷で、しかも目に見えにくい今〉という時代を学び、かろうじて生き延びていく。
そして――。ベトナムを離れて一〇年後、半ばアル中と化した浮浪者同然の〈わたし〉が、ヨルクと再会した時に履いているのが、古タイヤで作ったサイゴン式のサンダルなのだ。おそらくは透き通るほどすり減った、みすぼらしいサンダル。そのよるべない足もとから、若き日の作者とヒロインの像がブレながら重なっていく。履いていた無骨な編み上げ靴が原因で、共産圏と資本主義世界の境界で怖ろしい目に遭う女性を演じたカトリーヌ・ドヌーヴの姿も、同じように重なっていく。
歌手のビョークが主演しドヌーヴがその友人役として共演した映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のタイトルをとり、二人が演じた役名の登場人物が現れる最終章には、こんな謎めいた言葉が記されている。
これは映画を視る〈わたし〉の“裸の眼”を通して、世界に偏在する見えない裂け目としてのさまざまな境界を描いた作品なのだ。ふとしたきっかけで、裂け目を踏み外してしまうよるべない足もとを描いた作品なのである。
しかし、この最後に登場する〈盲目の女性〉とは一体何者なのか。これまで読者がつきあってきたベトナム人少女の彷徨の物語を根底から覆しかねないあれこれを語る、この女性は。〈わたし〉の物語のアイデンティティを大きく揺るがすこのトラップによって、読者もまた自らのよるべない足もとに気づかされることになる。私は自分が思っているような私なのか。私たちは〈みんな誰が監督なのか分からない歴史という映画の中で絶えず何かの役を演じ続けてい〉るだけではないのか。読む者をたじろがせずにはおかない、これは大変な傑作なのである。
【この書評が収録されている書籍】
ドイツが東西に分裂していた八八年、〈アメリカ帝国主義の犠牲者のナマの声を〉東側の同志青年らに聞かせるため、生まれて初めてベトナムを離れ、独りベルリンに到着した夜、西ドイツのボーフムから来た男ヨルクによって連れ去られてしまう〈わたし〉。しかし、彼女は警察に頼らない。大使館に駆け込むこともしない。ヨルクの家から逃げ出そうともしない。やがてモスクワ経由で故郷に帰ろうと夜行列車に乗り込むものの、着いた先はその逆のパリ。しばらくは街娼マリーの世話になるものの、夜行列車の中で知り合った同国人女性の愛雲と再会を果たし、誘われるまま彼女がフランス人の夫と暮らしている家に転がりこむ。パスポートも失った〈わたし〉は、こうしてどこにも属さない何者でもない存在として、パリで大勢の人物との出会いと別れを経験していくのだが――。
そうした流浪のさなか、〈わたし〉の心のよりどころになってくれるのが、カトリーヌ・ドヌーヴが出演した映画なのだ。『昼顔』『インドシナ』といった一三本の映画を幾度も幾度も繰り返し観ることによって、言葉も政治体制も思想も異なる場所に放り込まれた少女が、〈次々と今がやってきて、それがますます残酷で、しかも目に見えにくい今〉という時代を学び、かろうじて生き延びていく。
そして――。ベトナムを離れて一〇年後、半ばアル中と化した浮浪者同然の〈わたし〉が、ヨルクと再会した時に履いているのが、古タイヤで作ったサイゴン式のサンダルなのだ。おそらくは透き通るほどすり減った、みすぼらしいサンダル。そのよるべない足もとから、若き日の作者とヒロインの像がブレながら重なっていく。履いていた無骨な編み上げ靴が原因で、共産圏と資本主義世界の境界で怖ろしい目に遭う女性を演じたカトリーヌ・ドヌーヴの姿も、同じように重なっていく。
歌手のビョークが主演しドヌーヴがその友人役として共演した映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のタイトルをとり、二人が演じた役名の登場人物が現れる最終章には、こんな謎めいた言葉が記されている。
視力っていうのは裂け目みたいなものなんですよ。その裂け目を通して向こうが見えるんじゃなくて、視力自身が裂け目なんです。だからまさにそこが見えないんです。
これは映画を視る〈わたし〉の“裸の眼”を通して、世界に偏在する見えない裂け目としてのさまざまな境界を描いた作品なのだ。ふとしたきっかけで、裂け目を踏み外してしまうよるべない足もとを描いた作品なのである。
しかし、この最後に登場する〈盲目の女性〉とは一体何者なのか。これまで読者がつきあってきたベトナム人少女の彷徨の物語を根底から覆しかねないあれこれを語る、この女性は。〈わたし〉の物語のアイデンティティを大きく揺るがすこのトラップによって、読者もまた自らのよるべない足もとに気づかされることになる。私は自分が思っているような私なのか。私たちは〈みんな誰が監督なのか分からない歴史という映画の中で絶えず何かの役を演じ続けてい〉るだけではないのか。読む者をたじろがせずにはおかない、これは大変な傑作なのである。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

Invitation(終刊) 2005年4月
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