書評
『音沙汰 一の糸』(朝日新聞社)
言葉の宿り木
それにしても『音沙汰』とは、なんと淡泊で心地よい書名だろう。前著『まだら文』(新潮社)とおなじく、ここには京都とパリを定点とする精神の散策が四季の変化に重なるように描かれているのだが、ひとつひとつの作品がいわゆる新聞雑誌に特有の、長尺ではない枚数規定にしたがっているぶん、月に一度、読者が著者からの私信を受け取ることを想定しているような、温雅な語り口になっている。絵画、文学、音楽、建築、食物、植物、生物、気候、書画、そして旅。扱いようによってはまだら=曼陀羅の華やかさを作りあげるにじゅうぶんな素材が、 à bâtons rompus(ア・バトン・ロンピュ=とりとめもなく、の意)というフランス語表現を良い意味で連想させずにおかない自在な言葉の運用と、古都の大路小路に流れる風に運ばれて、理想の――つまり無条件に魅惑的な舞台としての京都ではなく、杉本秀太郎がいるから形になる限定詞つきの――京都に成長していくのである。音沙汰はすなわち、音信。音沙汰のあるなしは、受け取り人ではなく差し出し人の生死にかかわる重要な問題だ。国際電話やファクスの時代を経ていまや電子メールのやりとりが成り立つ世界になお船便や航空便を支持する者がいるとしたら、そのひとりに数えていいだろう杉本氏は、「パリ便り」と題された一文のなかで、異郷で手紙を待ちわび、また書きつづけたくなる自身の心持ちを郵便病と揶揄しつつ、「心の渇きは、なまの言葉では癒されません」とさりげなく言い切る。手紙を愛する、というより必要とする人々は、文字に移された思考の痕跡を通じて、現実に拮抗する勇気を与えられるのだ。
ただし、どれほどやわらかい語感に貫かれていても、月々の音沙汰は精神の均衡を保つ闘いの場でもある。アランの『プロポ』にひそむ穏やかなラディカリズムの継承者である文人の消息に、易きに流れ、新奇に取りつく現代の風潮に対して異を唱える毒があったとしても不思議ではない。ひとりでに閉まる日本のタクシーのドアがじつは客ではなく運転手のためにあると怒り、建設現場や花見の席で幅を利かせるビニールが色の調和を乱すと嘆き、地方都市の画一的な景観に言葉を失い、鴨川にかける鉄橋に反対する声に反対し、大田垣蓮月の歌集を文庫化したいとの申し出を謝絶した出版社にきつい戯れ文を送り、ゴミの「分別」という行政用語に兼好法師を引きながら腹を立てる。ゴミは「暮らしのなかの具体物」なのだから「分別」するのではなく「仕分け」すべきものなのだ、と。
「分別」を拒否する姿勢は、文学の世界でも崩れることなく、著者の世代に圧倒的な影響を及ぼしていたはずのヴァレリーや小林秀雄に対する、静かだが決然とした否定につながっていく。『平家物語』の話題から人前で話すときの身ぶりの考察へ、そして身ぶりのないヴァレリーの『テスト氏』へと飛ぶ連想の妙を省略して、該当箇所のみ引いてみよう。
『ムッシュー・テスト』を『テスト氏』と書き移すのは間違いである。『テストさん』でもいまだ及ばす、関西の語法で『テストはん』というのと同じ語感が『ムッシュー・テスト』には付きまとっている(そう気付いたときは四十歳になっていた)。
「氏」から「はん」への移行は、その場の思いつきからは遠い、時間をかけた思考の産物だ。あるいはまた、「海辺の墓地」の冒頭の「機智による二つのメタフォル」が面白くないという一節を挙げてもいいだろう。なにしろ長年「佳詩」と思い込んできたこの詩を収める詩集は、いまや「二重にならぶ本棚のうしろの列」にあるのだから。
言葉がどれほど精緻な技法と魔術を持っていても、「心の渇き」が癒されなければなにも残らない。モーツァルトを顕揚するあまり、ハイドンからは「外的な虚飾を平気で楽しんでゐる空虚な人の好さと言つたものを感ずる」と断じた小林秀雄の言葉の傲慢を、杉本氏はある米国人ピアニストによる親密なハイドン演奏会のなかで確信したと書く。「あの抜かりなく言い逃れを用意することに長(た)けた批評家の己惚れ鏡」と述べるときの氏には、批評家その人に対する以上に、若年の頃、わずかなあいだでもその人物に傾倒しかかったおのれの過去に刃をつきつけているような厳しさがありはしないだろうか。
時おりきらめくその鋭利な刃の輝きが、しかし本書ではかつて昆虫少年であった著者の小さな生き物に対する慈しみや、逝く者たちへの哀惜によって適度に抑えられ、「四十八茶、百ねずみ」のくすんだ色へとゆるやかに移ろう。六十篇を超える文章が展開してくれるのはそんな色の見本帖であり、信頼できる木々を選び抜いて仮寓した言葉の宿り木であり、書き手にとっても読み手にとっても「小さい祝祭」(伊東静雄「夕映(ゆうばえ)」)の連続なのである。
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