書評
『漫画と人生』(集英社)
荒俣宏は現代におけるレオナルドともいうべき隔絶した存在だが、その彼が小学生の頃から少女まんが家を志し、大学生になってもなお作品の持ち込みを続けていたという事実はこれまで一般には知られていなかった。それが今回、本書で一挙に明らかになり、我々は図版を多用した彼の執筆活動の原点がどこにあるかを知ることができるようになった。
まず彼が十数年も前に描いた「ザ・ダスト・レディー」という「理科系少女まんが」が発掘されて冒頭に添えられ、少女まんが家アラマタ・ヒロシの力量が、少なくともテクニック的には、石ノ森章太郎にも匹敵するほどのものであることが示されている。
これだけでも驚きだが、本書の少女まんが進化論がこれまた「実作者」として挫折(ざせつ)した体験に基づいていて、実に読ませる。
すなわち、人生の大問題を決めるべき思春期に、少女まんがに没頭した自分を振りかえることで、少女まんがの変貌を浮かび上がらせることに成功しているのである。
少女まんが家・荒俣宏の挫折の第一歩は、少女まんがが、「少女に読ませるまんが」から「少女が描くまんが」に変身したときに始まった。ただ、「少女が描くまんが」であっても、それが牧美也子や水野英子などの描く「超少女」のまんが、つまり、「少女たちの内部にあって美しさやチャームや悲劇性に秀でた、いわば頂点の少女」のまんがである限りは、男性の少女まんが家も、このジャンルに参加することは可能だった。
ところがここにもう一つ、別のタイプの少女が出現する。すなわち荒俣宏が《絶対少女》と名づけた、どこにでもいる平凡な少女、貸本屋まんがの末期に現れた、矢代まさこの「ようこシリーズ」に代表される少女である。
やがて、この《絶対少女》のまんがは、昭和五十年代に入ると、高野文子の登場によって「差異と個性」をそなえた「女流作家」のまんが、言い方を変えれば、《変態少女》のまんがへと変貌する。
「少女に読ませるまんが」が「少女が描くまんが」に、さらに「変態少女が描くまんが」へと進化したとき、男のまんが家は少女まんがを描けなくなっていたのである。
こうして荒俣宏は少女まんが家を諦(あきら)め、文筆による表現の道に入ってゆく。だが、彼はまだまんが家への道を断念したわけでは決してない。というのも、コンピュータグラフィックスによるまんがの時代が来れば、本質的に引用の芸術であるまんがは、「アイディアと資料性」の勝負になるから、そのときこそは、まんが家・荒俣宏の出番が来るにちがいないと踏んでいるからである。
CGの進化は早い。二十一世紀のまんが史家は、二十世紀最後のまんが家として荒俣宏の名前をあげることになるかもしれない。
【この書評が収録されている書籍】
まず彼が十数年も前に描いた「ザ・ダスト・レディー」という「理科系少女まんが」が発掘されて冒頭に添えられ、少女まんが家アラマタ・ヒロシの力量が、少なくともテクニック的には、石ノ森章太郎にも匹敵するほどのものであることが示されている。
これだけでも驚きだが、本書の少女まんが進化論がこれまた「実作者」として挫折(ざせつ)した体験に基づいていて、実に読ませる。
すなわち、人生の大問題を決めるべき思春期に、少女まんがに没頭した自分を振りかえることで、少女まんがの変貌を浮かび上がらせることに成功しているのである。
少女まんが家・荒俣宏の挫折の第一歩は、少女まんがが、「少女に読ませるまんが」から「少女が描くまんが」に変身したときに始まった。ただ、「少女が描くまんが」であっても、それが牧美也子や水野英子などの描く「超少女」のまんが、つまり、「少女たちの内部にあって美しさやチャームや悲劇性に秀でた、いわば頂点の少女」のまんがである限りは、男性の少女まんが家も、このジャンルに参加することは可能だった。
なぜなら、《超少女》たちはいつも少女たちと同様に少年たちにほほえみかけるのだから。
ところがここにもう一つ、別のタイプの少女が出現する。すなわち荒俣宏が《絶対少女》と名づけた、どこにでもいる平凡な少女、貸本屋まんがの末期に現れた、矢代まさこの「ようこシリーズ」に代表される少女である。
陽子にとって『特別な一日』についての物語になるなら、矢代ではなく男性の描き手にも描けそうな気がする。しかし、少女にとって『なんでもない一日』の大切さが相手となると、ぼくたち感性だけの《少女》にはちょっと絶望的になる。
やがて、この《絶対少女》のまんがは、昭和五十年代に入ると、高野文子の登場によって「差異と個性」をそなえた「女流作家」のまんが、言い方を変えれば、《変態少女》のまんがへと変貌する。
「少女に読ませるまんが」が「少女が描くまんが」に、さらに「変態少女が描くまんが」へと進化したとき、男のまんが家は少女まんがを描けなくなっていたのである。
こうして荒俣宏は少女まんが家を諦(あきら)め、文筆による表現の道に入ってゆく。だが、彼はまだまんが家への道を断念したわけでは決してない。というのも、コンピュータグラフィックスによるまんがの時代が来れば、本質的に引用の芸術であるまんがは、「アイディアと資料性」の勝負になるから、そのときこそは、まんが家・荒俣宏の出番が来るにちがいないと踏んでいるからである。
ぼくが将来もう一度漫画をやるんだったら、今度はもうCGで表現したいですね。
CGの進化は早い。二十一世紀のまんが史家は、二十世紀最後のまんが家として荒俣宏の名前をあげることになるかもしれない。
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