書評

『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房新社)

  • 2017/07/04
優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕  / 高橋 源一郎
優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(304ページ)
  • 発売日:2006-06-03
  • ISBN-10:4309408028
  • ISBN-13:978-4309408026
内容紹介:
ぼくは野球を知らなかった。ぼくの友だちもパパもママも先生さえも知らなかった。「野球を教わりたいんです」-"日本野球"創世の神髄が時空と国境を越えていま物語られる。一九八五年、阪神タイガースは本当に優勝したのだろうか?第一回三島由紀夫賞受賞の名作。
この作品には言ってみれば、骨格がふたつある。ひとつは、すべての事柄はAでなければ非Aだというあのカントールのとり出してみせた集合の原則とおなじものだ。たとえば人間は男であるか、男でないかどちらかにはいる。作家はいい作家であるか、よくない作家であるかどちらかだとか、批評家はひとつの点集合を除いたらみな駄目だとかいうのもおなじことだ。そこでこの本の読みどころのひとつは、「わたし」や「ぼく」が、すべての文章は野球について書かれているか、野球について書かれていないか、そのどちらかに入るという原則をつらぬくと、どんなユーモラスな読みができあがり、どんな皮肉な事態がうまれ、またどんな心をそそる叙情の風が吹きそよぐものか、確かめ確かめ読みすすむことだ。するとルナールの『博物誌』もライプニッツの『単子論』もパロディになって出てくる。

もうひとつこの作品の勘どころがある。それは、たとえてみればこういうことだ。皆さんは他人と会話をしていたり、他人の話を聴いていたりするとき、会話の進行の具合や話題の如何によっては、これはいかん、これは茶化してしまうか、ぶちこわして無意味にしてしまうほかに、話を救い出す方法がないとおもう瞬間に、しばしば出遇うに相違ない。そして真剣に話をしている相手を怒らせても仕方がないと覚悟して、勇気をふるい茶茶を入れることで、話題がまじめな嘘に転げおちるのを防こうとする。そんな「優雅で感傷的な」振舞いに及ぶことが誰にでもある。この作品のもうひとつの読みどころはそれだ。この作者には物語や現実の事態をまじめに進行してしまうことへの極度の恐怖があって、物語が何か意味あり気にみえそうになると、いつもそれをじぶんで茶化したり、じぶんで壊したりして、急いで無意味にしてしまいたくなる。また何か自分が意味をもちそうなドラマになると、筋書きを壊さずにはいられない。この破壊と無意味化の操作がどこまで続けられるか、作者の持続の長さと堪え方を、言葉の美として感じられたら、たぶんこの作品をじゅうぶんに読んだことになる。五味康祐の芥川賞をもらった作品に『喪神』というのがある。

この主人公の剣客は、ただ佇んで剣をだらりとしているだけだが、相手が斬り込んでくるかぎり、どんな強い相手でも、とぎすまされた反射神経を修練していて、一瞬の時差で必ず一〇〇パーセント倒すことができる。ところが最後に弟子とたたかうことになり、お互いに相手の仕掛けるのを待って無念夢想のまま長いながい時間を経るのだが、とうとうしびれを切らしてというか、魔がさしてというか、じぶんの方から仕掛けて弟子に斬り倒されてしまう。この本の作品もそれに似ている。意味あり気に読めるような個所がつくられてしまったら作品をやめなければならない。また読む方も意味をつくらないことをどれだけ作者が我慢しているかというように読まないで、どんな意味がこの作品にあるかというように読むことになったら、この本を閉じてしまわなくてはならない。そうでないときっと作者のモチーフの読みちがえになるからだ。それにもかかわらず物語の言葉は、瞬間を過ぎて持続してゆくと、どうしても意味の連鎖をつくって展開してしまう。この矛盾に出遇うと、そこだけはこの作品のなかで反転された物語になっている。いまそんな個所をふたつ挙げてみる。元野球選手の「わたし」と「リッチー」は、ひとりの野球のすきなぴかぴかの少年に、『テキサス・ガンマンズ対アングリー・ハングリー・イソディアンズ』という本のなかの洟をかむのに破りすてられてしまった十章以後の野球の話を補って聞かせてやる。少年は眼をかがやかせて聴いている。テキサス・ガンマンズのメンバーのガンマンたちが、スー族とコマンチ族の合同チームであるアングリー・ハングリー・インディアンズと野球の試合をしたそもそものいきさつは、銃や弓矢でたたかって殺し合うのにうんざりした両方の監督が、野球で勝負を決めようということになって、「どっちが勝っても、うらみっこなしにしよう」と合意して、試合をはじめたことからだ。両軍は九十八回までたたかって勝負をつけた。これを補って読めば「野球選手はどんな人間か」よくわかるはずだと「わたし」が少年に語って聞かせる個所がある。そこはおもわず意味に接触してしまった個所のひとつだ。なぜならここには意味を消さなかったために生みだされた倫理があるからだ。いいかえればおもわずさきに斬りかかった徴候がみられる個所だ。もうひとつ挙げる。第Ⅱ番目の話「ライプニッツに倣いて」で、スランプに陥った「ぼく」がコーチにボールがまったく見えてない、だから誕生日のプレゼントみたいな絶好球のストライクを三つとも見逃してしまったといわれて、独り言みたいに技術的に内省するところがある。好調のときはボールが超特大の地球儀みたいなおおきさで、ホームベースの二十センチのところで静止しているようにみえると「ぼく」は述懐する。球種についてもおなじようなことをかんがえる。作品の文章を引用すれば、「ストレートなら、縦のスピンがかかっているから土星とは違って丁度リングが縦についている天王星のように垂直方向に霧のようなものをぶら下げて飛んでくるのが見える。一方スライダーの場合はボールを握る場所によってかなり見え方が違う。縫い目に指を当てずに大きなスライダーを投げるピッチャーのボールは白いチラチラが中心の辺りに見えるが、縫い目が狭まったところに指をかけ、切るようにして投げるピッチャーのスライダーはなぜか中心が赤い。その赤はピッチャーによっても違うし、コンディションによっても違う。いつもは薔薇みたいな真っ赤なスライダーを投げるピッチャーのボールの色がクランベリー・ジュースみたいに見えたらそれはやつが女とうまくいってないからだ。でも、こんな風にボールが見えるのは、コンスタントに三割四分を打つバッターだけで、両リーグ合わせても十人いない。だから、オールスターのベンチの中では、『どうだった?』『あのスライダーは小豆色だったよ、回転が少し足りないから、トップスピンをきかしてやらないとスタンドまで運ぶのは無理だな』『サンキュー、わかったよ』とかこんな話をしているんだが、トップスピンをきかせるには時速百三十八キロで螺旋状に飛んでくるボールの中心から八ミリほど上を叩かなきゃならないんだ。たいていのバッターは来るボールを見当つけて打ってるだけで、そんなものはバッティングじゃない。もっともいまのぼくの立場ではそんなことも言えないな」。これがスランプ中の「ぼく」の独白で、しかもこの作品のなかで野球の技術について描写された唯一の個所だ。いってみれば野球について蘊蓄を傾けようとして文字どおり作者が傾けてしまった個所だといえる。ほんとうにこれが蘊蓄かどうか詮索する必要はない。作者が蘊蓄と見せようとしなければ成り立たない描写であればいいのだ。それははじめに挙げた個所が、銃や弓矢でほんとうにたたかうのが嫌になったガンマンとインディアンとが、野球で勝負の決着をつけようとして、そもそも「テキサス・ガンマンズ」と「アングリー・ハソグリー・インディアンズ」の野球試合が始まったということが、野球についての倫理らしきものを作者が物語っているとすれば、それ以上の詮索などいらないのとおなじだ。このふたつの個所は、物語をつくってしまうのを避けよう避けようと(反)物語を連鎖させてきた作者が、反転した物語をつくってしまった数少ない例に当っている。それが大切だとおもう。こういう二、三の個所が覗き窓になって、この覗き窓に感覚の眼や耳をくっつけてみないかぎり、作品の全体を吹いている風の柔かさやギャグの悲しさは、わからないように出来あがっている。だからこの作者の作品といえどもシュルレアリストたちの詩とおなじように〈意味がなければ作品じゃない〉ということにはなっているのだ。

こんどは無意味が反転して意味になっているところを挙げてみたい。第Ⅲ番目の話「センチメンタル・ベースボール・ジャーニー」では精神病院を渡り歩いていた「ほくの伯父」が「野球選手たる者は身体もしくは精神に重大な欠陥がなければならない」と言う。名選手たちは血の滲むような努力の果てに重大な欠陥を手に入れる。第Ⅶ番目の話「日本野球の行方」では阪神ファンの劇作家が、一九八五年に阪神タイガースは優勝したというイデオロギーが流布されたので、皆は阪神タイガースが優勝したと錯覚したのだと主張する。かれは阪神タイガースは優勝したというデマに惑わされないのは野球を愛するからで、阪神タイガースが優勝したはずだとかんがえる人の善意を疑わないのは阪神ファンだからだとかんがえている。稚内の精神病院で野球チームをつくっている掛布雅之、退団して野球について書かれた文章を集めるランディ・バース、四散して行方のわからない阪神の選手たち、こんなことが阪神ファンの劇作家によれば、一九八五年に起りえたことなのだと言う。どこへ向って日本野球は走るのかがわからないのではなく、どこかへ向って物語が走ったら駄目なのだという作家のこの作品にたいするモチーフが、阪神タイガースの選手や監督の行方や身の振り方の物語的な不定性を定めているのだ。もちろんこの作品のいちばんはじめに、オス猫なら『365日のおかず百科』、メス猫なら『太宰治週間』という名前をつけることと大家が決めたアパートの部屋を「わたし」が借りて住みはじめたときに、すでに無意味の描写が反転して意味をもってしまう作品の性格と行方は決まっていたともいえる。たぶん作者は『365日のおかず百科』と首っぴきでおかずを作っていたとき、この作品を書きはじめたのだろうし、この作品を書くために、ひとしきり太宰治の作品を読みふけったにちがいない。この猫の命名に似た命名や無意味化の操作は、この作品のいたるところにばらまかれていて、逆に反転した意味を固定している。そして作品を読むことも、論ずることも拒むように書かれたこういう個所で、戦略好きのこの作者の孤独が透明にみえてくるのだ。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(387ページ)
  • ISBN-10:412202580X
  • ISBN-13:978-4122025806

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優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕  / 高橋 源一郎
優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(304ページ)
  • 発売日:2006-06-03
  • ISBN-10:4309408028
  • ISBN-13:978-4309408026
内容紹介:
ぼくは野球を知らなかった。ぼくの友だちもパパもママも先生さえも知らなかった。「野球を教わりたいんです」-"日本野球"創世の神髄が時空と国境を越えていま物語られる。一九八五年、阪神タイガースは本当に優勝したのだろうか?第一回三島由紀夫賞受賞の名作。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1988年7月

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