書評

『聖女伝説』(筑摩書房)

  • 2020/03/04
聖女伝説 / 多和田 葉子
聖女伝説
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(282ページ)
  • 発売日:2016-03-09
  • ISBN-10:4480433449
  • ISBN-13:978-4480433442
内容紹介:
「でもわたしは美しい死体にはなりたくない」―“美しき死”へ少女たちを塗りこめ、観賞用の素材に変えようとするこの世界のあまたの罠から逃れるために、窓の外へと飛びだした“わたし”の行く末は… もっと読む
「でもわたしは美しい死体にはなりたくない」―“美しき死”へ少女たちを塗りこめ、観賞用の素材に変えようとするこの世界のあまたの罠から逃れるために、窓の外へと飛びだした“わたし”の行く末はいかに―。ことばの力で生きのびていく少女たちのためのもうひとつの“聖書”。著者の代表作にして性と生と聖をめぐる少女小説の傑作が、あらたに書き下ろされた外伝「声のおとずれ」を伴って、いま蘇る!

多和田葉子は「むずかしい」か

多和田葉子さんの小説は「むずかしい」ことになっている。もちろん「むずかしい」といっても、一昔前のアンチロマンみたいに、そもそも意味がわからないとか、筋が存在しないといった心配はない。登場人物たちにはみんな名前がついているし、物語はちゃんと一つの方向に進んでゆく。意味のわからない言葉も出てこない。それどころか、通常の小説以上に「意味をわかろう」と努力さえしている。

わたしは……こけしになっていくところを想像したのでした。……こけしは母親に殺された女の子の身代わりだそうです。女の子が生まれてがっかりした母親が、その子を殺して罪滅ぼしに作らせたのがこけしだそうです。わたしは、こけしの血が流れているからこけしなのではありません。わたしが、こけしであるとしたら、わたしはコケシという単語から生まれたからです。……コケシのコと言えば、個、戸、古、粉、固、孤、枯、狐、誇、木、去、鼓、という字が浮かびます。孤独な狐が誇らしげに閉ざした古い身体が、枯れて粉々になって世を去る直前に、無理に自分自身を戸のような個に固めて、鼓のように響き続けるコケシのコです。コケシのケといえば……。

主人公の敏感な少女は、自分を「こけし」だと感じる。こういう場合、ふつうの小説では、思春期に向かう微妙な心理を描写しようとする。だから、この引用部分の前半分ぐらいのことは書くかもしれない。しかし、多和田葉子は「こけし」に加えて「コケシ」の部分を書く。それは主人公が、言葉というものは「わからない」ものだと考えているからである。だから、その意味を確かめようとする。ふつうの「むずかしい」小説は、主人公や読者が言葉を「わかっている」ものとして、その向こうに「わからない」ものを作り上げようとする結果「むずかしい」という印象を与える。多和田葉子さんの小説の場合は逆なのだ。

〈ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、身体を互いに辱めて、汚すがままに任せられた。彼らの中の女は、その自然な関係を不自然なものに変え、男もまたそれを真似て、お互いにその欲情を燃やし、女は女に対し恥ずべきことをし、男もまたそれを真似た〉そんなセリフが俳優の口から出るようにすらすらと、少ししわがれた声で、わたしの口から飛び出してきたのです。教室はしんと静まりかえりました。明治維新について話していた先生も口を閉ざし、しきりとまばたきしました。そのうち、やっと、先生が忘れていたセリフでも思い出したように、〈授業に関係のないことは言わないこと〉と言うと、教室中がほっとしたように溜め息をつきました。

この多和田葉子的シーンでは二つのことが起こっている。一つは現代の中に突然、古代が顔を出していることである(たとえば古井由吉のように)。どちらか一方を書くなら「むずかしい」とは感じない。しかし、多和田さんは両方を同時に書く。そう見えるからだ。しかし、現代と古代は混じり合わない。だから「むずかしい」。そして、もう一つ。この古代の部分が現代の部分への批判になっていることだ。批判は付け加えることでもある。ちょうど「こけし」に「コケシ」が加わったように。明治維新が歴史なら、聖書だって歴史だろう。このシーンの、多和田葉子の「コケシ」の意味はこれである。そんな本質的なことをいわれたら教師は呆然としてしまう。そう、この教師はこの本の読者の姿でもあるのだ。

【この書評が収録されている書籍】
退屈な読書 / 高橋 源一郎
退屈な読書
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1999-03-00
  • ISBN-13:978-4022573759
内容紹介:
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

聖女伝説 / 多和田 葉子
聖女伝説
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(282ページ)
  • 発売日:2016-03-09
  • ISBN-10:4480433449
  • ISBN-13:978-4480433442
内容紹介:
「でもわたしは美しい死体にはなりたくない」―“美しき死”へ少女たちを塗りこめ、観賞用の素材に変えようとするこの世界のあまたの罠から逃れるために、窓の外へと飛びだした“わたし”の行く末は… もっと読む
「でもわたしは美しい死体にはなりたくない」―“美しき死”へ少女たちを塗りこめ、観賞用の素材に変えようとするこの世界のあまたの罠から逃れるために、窓の外へと飛びだした“わたし”の行く末はいかに―。ことばの力で生きのびていく少女たちのためのもうひとつの“聖書”。著者の代表作にして性と生と聖をめぐる少女小説の傑作が、あらたに書き下ろされた外伝「声のおとずれ」を伴って、いま蘇る!

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1996年9月6日~1998年4月24日

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