書評
『聖女伝説』(筑摩書房)
多和田葉子は「むずかしい」か
多和田葉子さんの小説は「むずかしい」ことになっている。もちろん「むずかしい」といっても、一昔前のアンチロマンみたいに、そもそも意味がわからないとか、筋が存在しないといった心配はない。登場人物たちにはみんな名前がついているし、物語はちゃんと一つの方向に進んでゆく。意味のわからない言葉も出てこない。それどころか、通常の小説以上に「意味をわかろう」と努力さえしている。わたしは……こけしになっていくところを想像したのでした。……こけしは母親に殺された女の子の身代わりだそうです。女の子が生まれてがっかりした母親が、その子を殺して罪滅ぼしに作らせたのがこけしだそうです。わたしは、こけしの血が流れているからこけしなのではありません。わたしが、こけしであるとしたら、わたしはコケシという単語から生まれたからです。……コケシのコと言えば、個、戸、古、粉、固、孤、枯、狐、誇、木、去、鼓、という字が浮かびます。孤独な狐が誇らしげに閉ざした古い身体が、枯れて粉々になって世を去る直前に、無理に自分自身を戸のような個に固めて、鼓のように響き続けるコケシのコです。コケシのケといえば……。
主人公の敏感な少女は、自分を「こけし」だと感じる。こういう場合、ふつうの小説では、思春期に向かう微妙な心理を描写しようとする。だから、この引用部分の前半分ぐらいのことは書くかもしれない。しかし、多和田葉子は「こけし」に加えて「コケシ」の部分を書く。それは主人公が、言葉というものは「わからない」ものだと考えているからである。だから、その意味を確かめようとする。ふつうの「むずかしい」小説は、主人公や読者が言葉を「わかっている」ものとして、その向こうに「わからない」ものを作り上げようとする結果「むずかしい」という印象を与える。多和田葉子さんの小説の場合は逆なのだ。
〈ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、身体を互いに辱めて、汚すがままに任せられた。彼らの中の女は、その自然な関係を不自然なものに変え、男もまたそれを真似て、お互いにその欲情を燃やし、女は女に対し恥ずべきことをし、男もまたそれを真似た〉そんなセリフが俳優の口から出るようにすらすらと、少ししわがれた声で、わたしの口から飛び出してきたのです。教室はしんと静まりかえりました。明治維新について話していた先生も口を閉ざし、しきりとまばたきしました。そのうち、やっと、先生が忘れていたセリフでも思い出したように、〈授業に関係のないことは言わないこと〉と言うと、教室中がほっとしたように溜め息をつきました。
この多和田葉子的シーンでは二つのことが起こっている。一つは現代の中に突然、古代が顔を出していることである(たとえば古井由吉のように)。どちらか一方を書くなら「むずかしい」とは感じない。しかし、多和田さんは両方を同時に書く。そう見えるからだ。しかし、現代と古代は混じり合わない。だから「むずかしい」。そして、もう一つ。この古代の部分が現代の部分への批判になっていることだ。批判は付け加えることでもある。ちょうど「こけし」に「コケシ」が加わったように。明治維新が歴史なら、聖書だって歴史だろう。このシーンの、多和田葉子の「コケシ」の意味はこれである。そんな本質的なことをいわれたら教師は呆然としてしまう。そう、この教師はこの本の読者の姿でもあるのだ。
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