書評
『弥生文化の成立―大変革の主体は「縄紋人」だった』(角川書店)
農具が語る「稲作文化を広げた縄紋人」
ノルウェーからの留学生に、現代ノルウェー人はバイキングの血を引いているのか、とたずねたら、なぜ日本の人はそんなどうでもいいことに関心を持つのか、といぶかしがられた。ほんとにどうして私たちは日本人とその文化の由来についてかくも気になるんだろうか。最大のテーマは、もちろん、縄紋時代と弥生時代の裂目についてで、はたして稲作とその文化はどこに発し、どのルートで渡来し、どう定着して行ったのか。こうした数千年前のテーマについて、研究者はともかく一般ジャーナリズムや国民がこれほど関心を持ち、きりもなく論じつづけている国は珍しいにちがいない。
発生地について揚子江下流説が定説化しているし、渡来ルートも朝鮮半島の南西部説に向かいつつあるように見受けられなくもないではないが、いっかな戦国状態を脱け出せないのが定着と流布の経過で、稲作を伴った渡来人が大挙して日本列島に上陸し、土着の縄紋人を駆逐して弥生時代を切り開いたのか、それとも明治維新の時のように土着の人々が新しい生産方式と文化を受け容れて変身したのか。
私のアイデンティティとしては、自然人たる縄紋人の血を引いていると思いたいけれど、何十万人も渡来したと計算する研究者もいるし、民族大移動は世界的にはごくありふれている。諸説を読むたびに心は千々に乱れるが、このたび手にした『弥生文化の成立』(角川選書)は縄紋人こそが弥生時代を切り拓いたとする旗幟鮮明な一冊であった。
稲作文化が渡来人とともに北九州に上陸し、その後、瀬戸内海沿岸に広がり、さらに東へと伝わったことはまちがいないとして、問題は瀬戸内に広げたのは渡来人だったのか、それとも土着の縄紋人だったのか。この難題を解く鍵をどこに見つけるかが答の方向を大きく作用するが、著者は農具に注目する。まことに卓見で、稲作とは稲そのものと作の二つからなり、稲そのものの証言が限られている以上、作を支えた農具(さいわい大量に発掘される)から事情を聴取するのは正しい。
稲作に必要な道具としては、鍬(くわ)、鋤(すき)などの木製の起耕具、稲穂を刈り取る石製の収穫具、畔(あぜ)や水路の板を加工する石斧などの工具があるが、これら日本出土の道具を、朝鮮半島のものと比較する。木製の起耕具は半島のものが九州から瀬戸内までストレートに伝わっている。問題は石製の収穫具と工具である。半島の磨製石器で列島では使われていない種類があって、たとえば半島で高度に発達した中心的工具の太型蛤刃(ふとがたはまぐりは)石斧は日本に入ってきていない。代わりに、縄紋系の石斧が使われている。
つまり、稲作の開始とともに縄紋時代に在来しなかったか存在性が希薄だった石器は大陸より新たな道具が導入されるが、縄紋時代に長年使用されてきた在来の道具は、いかに朝鮮半島に優れた同種機能の道具が発展していても、それを受容しなかったのである(下條信行)。
これが北九州で稲作が始まった頃の状況で、さらに瀬戸内になると、収稲具の石庖丁以外の大陸系磨製石器は全く伝わらず、縄紋系石器で済まされている。
こうした農工具のほかに、水田、集落、墓制、をテーマに、最新の発掘成果を材料として得られた結論は、
日本列島内における水稲農耕文化の広がりは、従来考えられていたような、新移住者による急速な文化移植現象ではなく、むしろ在地の縄紋人が主体的に受容したものである(金関恕)。
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