危機的状況の人々に寄せる深い洞察
七篇の小説を読んで、表紙のタイトルを再び眺めると、読者は作家が用意した繊細なアイロニーをうけとめることになる。外は夏。このタイトルは「風景の使い道」という一篇で、語り手がふと、夏の日のスノードームを思い描く場面から取られている。そう、中は真冬なのだ。ガラスの球体に閉じ込められでもしたように、寒い季節がそこから春へとうつろわないのは、小説の登場人物たちの心が時を刻むのを止めてしまったからだ。
若い夫婦は幼い子を失い、少年は父を亡くし、愛犬を亡くす。長く暮らした時間の中に、恋人への愛情を見出(みいだ)せなくなってしまった女性、得られたかもしれないポジションを、ある過失のために失ってしまった男性。主人公たちはそれぞれ、喪失の体験の中に取り残される。
昔の写真の中にいる俺はいつもぎこちなさそうに、でも当然のように、その場所に立っている」「誰かに向かって、その誰かが願う未来に向かって、解像度の低い笑みを見せていた。そうやって写真に刻まれた無知、永遠の無知は今も胸のある箇所を刺し、揺さぶる。何かについてわからないと言っているときは大体、何を失うことになるのかわからないって言っているのと同じことだから。
キム・エランは、韓国現代作家の旗手の一人であり、若くしてデビューし、若い世代の声を代表する存在だった。『走れ、オヤジ殿』や『どきどき僕の人生』に見られる、せつなさとおかしみを併せ持つ軽やかな文体が持ち味だったが、おもに2014年以降に書かれた短篇を集めた本書では、意図的にその軽やかさを封印したようにもみえる。
背景には、14年4月に起こったセウォル号事故がある。修学旅行中の高校生たちの命が失われた痛ましい事故は、隣国の私たちにも生々しく記憶された。本書に収められた短篇は、どれ一つとして、その事件を扱ってはいない。そうではなくて、その悲劇を受け止めた小説家が、だいじな何かを不意打ちのようにして失うことによって危機的状況に陥る個人に、深い洞察を寄せた結果が、一連の作品を生んだのだろう。
小説は人がなにかを失う前の、あるいは後の、生活の細部を丹念に描き出す。子供を亡くした母親が好きだった家のインテリアとその手入れを、ティーンエイジャーになった息子の心を見失いそうになるシングルマザーの物語では、彼女が息子の誕生日に作ってやる料理の詳細を。そして、日々の営みの中に流れる時間を描き出す。唐突な別れが人から奪い去るのは、まさにそうした時間なのだ。
最後の一篇「どこに行きたいのですか」は、中でも奇妙な味わいを持つ。主人公は教師だった夫を事故で失った。傷心の彼女は、バカンスに出る一カ月ほど留守番をしてくれないかという、スコットランドに住む従姉(いとこ)の依頼に応じて、異国でハウスシッターをすることになる。ひとりぼっちの部屋で、戯れにスマートフォンのAIアシスタントSiriと会話するのだが、「人は死ぬと、どうなるんですか?」という問いにSiriは、「どこへ向かう経路のことですか?」「どこに行きたいのですか?」と問い返してくる。
小説の文体は軽やかというのとは違うけれど、けっして重たくはない。静謐(せいひつ)さと透明感と、感傷に陥らない意思がある。
人は悲しみの中に取り残されるが、そこにも時は存在する。
スノードームの中に流れる時間と、そこに置き去りになった人の心の揺れを、丁寧に描き込んだ名短篇集である。