書評
『書物の愉しみ 井波律子書評集』(岩波書店)
枠越え躍動する空気を自在に描写
中国文学者井波律子には中国の古典の膨大な翻訳がある。抜群の語学力と豊かな文藻が、生み出した。優れた中国語の力は学問をするなかでつちかわれたものだろう。では豊かな文章の才はどうか。いうまでもない。たぐいのない読書のなかではぐくまれた。ここには書物にかかわるおよそ三十年間の文章の「ほぼすべて」を収めたとある。ユニークな編集がされている。「書評1987~2007」の第1部と「書評2008~2018」の第3部が、サンドイッチのように第2部の「中国の古典 中国の歴史」をはさみこんでいる。
ただし区別はそこまでのことで、読者は自由にワクをとびこえて、老子のこと、漢の武帝のこと、幸田文の箪笥(たんす)の引き出しのこと、上方演芸の中心だった秋田実のことを同じようにたのしめる。井波律子という人が語ると、一応はまったく別々の世界であるが、それぞれに命があり、運命めいたものがあって、本質的にはたいした違いがあってのことではないように思えてくる。中国の歴史はなんにも知らないくせに、変転ただならぬ大陸と、「雑草のような演芸ジャンル」の転変とがかさなってくる。
中国の歴史や古典を、日常の生活雑器のように話せるというのは、大変なことだと思うのだが、わざとわかりやすく話したというところはミジンもない。よそよそしさも気どりもない。この人の見方、また文章には、勁(つよ)い芯のようなものが通っていて、だから相当大胆なことでも自然に言える。恩師であると思われる吉川幸次郎の『漢の武帝』をとりあげたすぐあとで、作家武田泰淳の『司馬遷-史記の世界』に受けた「強烈な衝撃」を語ることができる。武帝の逆鱗(げきりん)にふれて「宮刑」に処せられ、おめおめ「生き恥さらした」男の以後の生き方と、『史記』の考えぬかれた構成。ごく自然に、自分が心動かされたことを語るからだ。
同じように吉川幸次郎『三国志実録』に小論にちかい書評があり、つづいて花田清輝の『随筆三国志』に同様の力篇を捧げた。一代の碩学(せきがく)であれ、一介の文筆家であれ、論ずるにおいては同じであって、そこに躍動する空気がみなぎっているかぎり、なんの区別があろうかというのである。そういう日々が後ろにも前にもずっとつらなっていて、気がつくと三十年が過ぎ去っていた。とてもいい話であり、見ようによれば恐い話でもあるような気がする。
中国語の知識がまるでない身でいうのだが、漢語のみの言葉というのは、いわばきつい言葉で、あいまいさが許されないのではあるまいか。一方、日本語は漢字と仮名を用いて、しかも仮名にも平仮名と片仮名を使い分ける。漢語だけでははみ出る思いがあって、平仮名をあみ出し、漢字を省略し、重宝な片仮名をつくり出した。
文筆家・翻訳家井波律子はそういった中国語と日本語の相克を、当然のように通ってきた人のように思われる。だから書評の海にあふれている、ずいぶん重い本でも澄んで明るい。そんななかで個性ゆたかな人の、好むと好まざるとにかかわらず、壮絶な人生を送らざるをえなかった、そんな生きざまが好きなのはひと目でわかる。それをやさしい目で、自分も心動かされながら客観性を失わず書いていく。
200をこえる文章群が、どれもひょいと印象深いことを言ってはおあとと交代していく。こういう文学者を同時代にもったということは、私たちの幸せだった。それにしても、こちらの青くさい文学少年ぶりを、どんな目で見られていたのだろう。