書評
『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(筑摩書房)
優れた芸術作品というものは、必ずおのれ自身のジャンルにたいする存在論的問いかけを含んでいるものだが、著者によれば、絵画とはなにかという問いは、ある種のギリシャ神話、およびそれに題材を取った傑作絵画のうちに見いだされることが多いという。
たとえば、オルペウス、ナルキッソス、メドゥーサの神話を描いた絵画は、いずれも絵画の前提条件である「見る」という行為の意味を問いかける点で、そうした存在論の手掛かりとなると考えることができる。
すなわち、禁忌を破って妻を見てしまったオルペウスの神話は、妻の瞳(ひとみ)に映った「自分自身を見た」という部分で「鏡=絵画」の問題を喚起する。ついで水面に映った自分に恋したため水仙に変身したナルキッソスの神話は、鏡と絵の類似性、および、それによって絵画が「芸術の花」へと昇華するという二点において、「絵画とは鏡である」という考え方を補強するが、同時に見ることが死に通ずるという箇所では見た者を石に変えるメドゥーサの神話へとつながっていく。そしてメドゥーサの神話は、画家は視線によって世界を石化させるメドゥーサであると同時に鏡によってメドゥーサの首を切るペルセウスでもあるという点、および絵画は切られたメドゥーサの首と同じように「切り取られた窓」であるという点で、絵画の本質を露呈させている。
だが、絵画とは何かという問題を我々に問いかけるのは、むしろ「皮膚」をテーマにした神話とその絵画である。
その典型は、楽器の演奏でアポロンに戦いを挑み、敗れて皮剝(かわは)ぎにされてしまったマルシュアスの神話にもとめることができる。この神話は、当然、「最後の審判」でミケランジェロが描いた、自分の抜け殻を手に持つ聖バルトロメオを連想させずにはおかないが、抜け殻はミケランジェロ自身であるのだから、神に芸術の戦いを挑んだマルシュアスは、結局ミケランジェロその人だということになる。ここから得られる結論は、「皮剝ぎとしての芸術制作、皮膚としての芸術制作、皮膚としての絵画」、という絵画認識である。この皮膚概念のうちには、それを覆う布、ヴェール、服の襞(ひだ)なども含まれるが、著者はこれらのテーマが特権的に現れる聖ヴェロニカの聖顔布伝説、ベルニーニの「聖女テレジアの恍惚(こうこつ)」の襞、クラナッハの「ルクレティア」のヴェールなどを検討し、それらが、いずれも絵画の存在論的な隠喩(いんゆ)となっていることを証明して見せる。たとえば、聖顔布伝説は絵画の素材が石から画布へ移ったこと、および直接的プリントとしての「版」の誕生を予告し、ヴェールは隠すと同時に示す表面としての絵画の本質を開示するという具合に。
著者は、「鏡」と「皮膚」を取り上げたことの根拠として、「表面に、皺(しわ)に、皮膚に敢然として踏み止どまる」というニーチェの言葉をあげているが、これは絵画に内面や深層を求めたがる意味論的絵画批評に対する、認識論的、存在論的絵画論のマニフェストだと見なすことができる。
なお、「鏡」と「皮膚」の二つのテーマは、ベラスケス作「侍女たち」論によってつなげられているが、この論文は、フーコーの有名な分析を一刀両断に切り捨てて、久しぶりに論理的「興奮」を味わわせてくれる。
新しい絵画論の試みとして高く評価することができよう。
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
たとえば、オルペウス、ナルキッソス、メドゥーサの神話を描いた絵画は、いずれも絵画の前提条件である「見る」という行為の意味を問いかける点で、そうした存在論の手掛かりとなると考えることができる。
すなわち、禁忌を破って妻を見てしまったオルペウスの神話は、妻の瞳(ひとみ)に映った「自分自身を見た」という部分で「鏡=絵画」の問題を喚起する。ついで水面に映った自分に恋したため水仙に変身したナルキッソスの神話は、鏡と絵の類似性、および、それによって絵画が「芸術の花」へと昇華するという二点において、「絵画とは鏡である」という考え方を補強するが、同時に見ることが死に通ずるという箇所では見た者を石に変えるメドゥーサの神話へとつながっていく。そしてメドゥーサの神話は、画家は視線によって世界を石化させるメドゥーサであると同時に鏡によってメドゥーサの首を切るペルセウスでもあるという点、および絵画は切られたメドゥーサの首と同じように「切り取られた窓」であるという点で、絵画の本質を露呈させている。
だが、絵画とは何かという問題を我々に問いかけるのは、むしろ「皮膚」をテーマにした神話とその絵画である。
その典型は、楽器の演奏でアポロンに戦いを挑み、敗れて皮剝(かわは)ぎにされてしまったマルシュアスの神話にもとめることができる。この神話は、当然、「最後の審判」でミケランジェロが描いた、自分の抜け殻を手に持つ聖バルトロメオを連想させずにはおかないが、抜け殻はミケランジェロ自身であるのだから、神に芸術の戦いを挑んだマルシュアスは、結局ミケランジェロその人だということになる。ここから得られる結論は、「皮剝ぎとしての芸術制作、皮膚としての芸術制作、皮膚としての絵画」、という絵画認識である。この皮膚概念のうちには、それを覆う布、ヴェール、服の襞(ひだ)なども含まれるが、著者はこれらのテーマが特権的に現れる聖ヴェロニカの聖顔布伝説、ベルニーニの「聖女テレジアの恍惚(こうこつ)」の襞、クラナッハの「ルクレティア」のヴェールなどを検討し、それらが、いずれも絵画の存在論的な隠喩(いんゆ)となっていることを証明して見せる。たとえば、聖顔布伝説は絵画の素材が石から画布へ移ったこと、および直接的プリントとしての「版」の誕生を予告し、ヴェールは隠すと同時に示す表面としての絵画の本質を開示するという具合に。
著者は、「鏡」と「皮膚」を取り上げたことの根拠として、「表面に、皺(しわ)に、皮膚に敢然として踏み止どまる」というニーチェの言葉をあげているが、これは絵画に内面や深層を求めたがる意味論的絵画批評に対する、認識論的、存在論的絵画論のマニフェストだと見なすことができる。
なお、「鏡」と「皮膚」の二つのテーマは、ベラスケス作「侍女たち」論によってつなげられているが、この論文は、フーコーの有名な分析を一刀両断に切り捨てて、久しぶりに論理的「興奮」を味わわせてくれる。
新しい絵画論の試みとして高く評価することができよう。
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